赤に触れる

 バレンタイン公演前のロッカールームには黒曜の姿があった。時間には少し早く、まだチームWの他のメンバーは来ていない。

 アップをこなし、シャワーを浴びて公演衣装へ着替えたものの、ボタンは開けたまま。鏡の前で髪型のセットをしていると、錆びた蝶番のせいでギイと鈍い音を立てて扉が開く音がした。ロッカールームに来るのは大抵公演日のチームだけ、その上でこの時間に来る人間など一人しかいない。身体はメイク台を向いたまま、左手にある入り口に目を向けると予想通りの人物がそこに立っていた。

「もうアップまで終わってんのか。今日も早いな。」

「それはお前もだろう。鏡へ語りかける言葉は自らに返るものだ。」

 いつも通り良く分からない言葉回しを聞きつつ、シャワールームに入っていくのを鏡越しに見送る。手早くメイクを済ませようとベースを塗る。舞台に立つ上ではメイクをした方が当然映えるので覚えろと前のスターレスで叩き込まれ、すっかり手慣れた手つきでメイクを施していく。どうせ汗で落ちるだろうとは思うが、「スターレス」ではするのが当然だった。今更変えるわけもない。とはいえ、やった方がいいと言われた最低限のベースメイクと目元のラインのみだ。クーなどは公演ごとに色々と並べて塗っているのを見かけたが、並んでいるものの半分も使用用途が理解できなかった。

 そう考えながらメイクを終わらせたところで、シャワーを済ませて着替え終えたシンが背中越しに声をかけてきた。

「今日は客席に降りるのだろう。いつもと趣向を変えてはどうだ。」

「はあ?いらねえだろ。」

「肉眼で見る太陽は瞳を灼くものだ。」

 言いながら、メイク台に常備されている化粧品を確認し始めるシン。目当ての物を見つけたのか、何かを取り出してこちらを向いた。無骨な手のサイズと小さな筒状の化粧品のサイズの不釣り合いさに少し笑いがこぼれた。と、その手がそのまま蓋を開けてみせる。流石にそこまでいけば詳しくない自分でも分かる。口紅だ。

「変な味するし嫌いなんだよ、それ。一番塗らなくていいだろ。」

「お前の髪色と今回の衣装ならば塗った方が映える。」

 温厚に思われることが多いが、多少強引なところのある男は隣に立ち、こちらの顎を掴んで唇に塗り始めた。何故だか少し楽しそうな様子にますます意味が分からないと思いつつ、なんとなくされるがままになってやる。

 

 終わったのか離れていく手に、首を回して鏡を確認する。血の色にも似た赤が唇に塗られているのが見え、違和感にげんなりとした表情が浮かぶ。拭ってしまいたい。

「アンタは塗らねえのかよ。」

「この〝赤〟はお前の色だ。俺には合わない。」

「んだそりゃ。」

 なんだかその言葉が癪に障る。関係ない、と一歩距離を取られているような。いつもは気にならない、感情の読みにくい表情にも今は腹が立つ。一方的に塗られるだけ、というのも気に食わない。

 そんな苛立ちのせいか、無意識に手はシンの開いた胸倉を掴んで引き寄せていた。引き寄せる勢いのまま立ち上がった衝撃で自分の座っていた丸椅子が倒れた。そのまま、急な動きに少し目を丸くした男の唇に自分のものを押し当てる。塗られた赤を移すように、塗り込むように、眼を見つめたまま深く口づける。

 

 唇を離し、掴んでいた衣装からも手を離す。重力に従って丸椅子に座り込むシンの唇に薄くなってはいるが、赤色が移ったのを見て少し気分が晴れる。横目で鏡を見れば自分のものも薄くなっていたが、かえってそれくらいの方が良いように思えた。

「何回塗っても変な味すんな。」

 口の中に入ってしまったものを舌で拭いながらそうこぼす。前のスターレスでも試してみろと塗られたことがあったのを頭の端で思い出す。

「お前は、…。いや、言うのも野暮というものか。」

 少し呆けたように口を開くシン。その顔を上から見下ろしながら、唇からはみ出た赤を親指で拭い取る。そのまま少しかさついた唇に触れる。口紅で赤くなった指で目元に触れてやろうかなどと考えながら、その灰色の瞳を上から覗き込んだ。目の前の男曰く、この〝赤〟は自分のものだというのだから、塗り込んで色を移せば印になるだろう。自分の物には名前を書くのだったか。これは子供が駄々を捏ねて主張するような独占欲、更に言えばただの自己満足だ。そう分かってはいるが、珍しく呆けた顔の男につけてみる印というのも悪くないように思えた。

2022-09-08