街が徐々に夕焼けに染っていく頃、開店時間より早い時間にスターレスに到着した。何時もより少し早い時間だ。
今日のフロア担当は誰だろうかと思いながらドアを潜り、エントランスに入る。開店前に店に入るのも随分と慣れてしまった。
「あれ?姫、今日は早いんだな。」
入るなり、モップを手にした銀星に声をかけられる。それと同時にエントランスにでてきたソテツも、こちらに歩み寄ってくる。
「こんにちは。今日は用事が早く終わったので。中で待っててもいいですか?」
「ああ、いいぜ。今机拭いてるところだから、バックヤードでもいいけどな。」
「ケイがフロアにいるよ。案内しようか。」
「いえ!いつものところ座って待ってます。掃除中に邪魔しちゃってすみません。」
「気にしなくていいのに。」
エントランスで2人からの申し出を断り、1人でフロアに入ろうと足を動かした。ソテツの横を通り抜けたところで、何故かいつもと違う香りがした気がして、歩くのが無意識に遅くなる。シャンプーだろうか。しかしどこかで嗅いだことのあるような…。ただ煙草の匂いが薄かったからかもしれないが、いつもと少し違う香りがする。
「どうかしたのか?」
「あ、いえ!なんだかいつもと違う香りがした気がして。気のせいですかね。」
「香り…?…ああ、昨日泊まったからなぁ。そのせいだろ。それより、いつもの俺の香り、覚えてるのか?」
そう言いながら、ニヤニヤと近づいてくるソテツに少し焦る。
「すみません!なんか変態みたいですね!ごめんなさい!」
思わずまくし立てるように言い放ち、大急ぎでフロアへ走る。突然こんな話をしてしまった私も悪いが、急に近づいて来られるのは心臓に悪い。
背後から聞こえるソテツの笑い声とやや呆れて窘める銀星の声に少し顔が熱くなりながら、フロアへ入った。と、クロスを手に不思議そうにこちらを見るギィと目が合う。今日のフロア担当はチームKばかりのようだ。バーカウンターの中にはケイの姿もあった。
「やけに慌てて入ってきたが、どうかしたのか。ソテツが何かしたか?」
「いえ!大丈夫です。どちらかと言うと私のせいなので…。」
「ならば良いが…。何かあれば言ってくれ。」
「ソテツはすぐ人をからかう。貴方も、困った?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。」
「では、席に案内しよう。準備中で落ち着かないかもしれないが、座ってゆっくりしていてくれ。」
バーカウンターから出てきたケイに従って移動しようと、近づいていく。ケイ相手に遠慮するといつの間にか流されてしまう。それならば先に頷いてしまった方が、相手から奪ってしまう時間も少なくて済むと学んだのは割と最近だ。
ある程度近づいたところで、ケイからもいつもと少し違う香りがすることに気付く。
「煙草…?」
「どうかしたのか?」
「あ、いえ!なんでもないです。」
薄らとだか感じる香りに思わず言葉がこぼれる。つい先程からかわれたばかりで、咄嗟に否定の言葉を述べると、不思議そうにしつつも深く追求せずに案内してくれるケイの背中について歩く。
確かケイは煙草を吸わないはずだ。喫煙所で香りが移ったのだろうか。しかしあそこに長居するのを見たことも無い。話し込むなら別の場所でするだろう。それに、この煙草の香りもどこかで嗅いだことがある。そもそも喫煙所でついたのならば、もっと色んな煙草の香りが混ざるはずだ。最近は大牙が吸っている甘い香りも漂っているのだし。
そうこう悩んでいると、もう席に着いてしまった。随分と慣れてしまったいつもの席だ。
「何かドリンクを持ってこよう。何か希望はあるか?」
「あ、なんでもいいので温かいものをお願いできますか?少し外が寒くて。」
「もちろんだ。少し待っていてくれ。それとこれを。」
いつの間に用意したのかブランケットを渡される。こういうところがいつもスマートで、未だに慣れない。
お礼を言いながら受け取り、ありがたく冷えた膝にかけて足を温めることにする。
そうしてバーカウンターに戻っていく背中を見送りながら、先程の香りについて思考を巡らす。あの煙草はどこで嗅いだのだったか…。つい最近どこかで。
視界の端でバーカウンターに立つケイに近寄る影が見えた。
ソテツだ。
エントランスの掃除が終わったのだろうか、やや遅れて銀星もフロアへ入ってきた。
「あっ!」
バーカウンターに片腕を置いて寄りかかりながらケイに話しかけるソテツを見て、頭に先程までの疑問の答えが思い当たった。あの煙草の香りは確かに。そして間違いでなければ、あのシャンプーの香りはケイのものだ。そこまで思い当たったところで、はたと思考が止まる。
なぜあの2人の香りが今日は互いについているのか。どちらも珍しい香りだ。ましてソテツは先程「泊まった」と言っていたような。ケイも客前で煙草の香りがするのをあまり好まないのではなかったか。だが、ソテツの煙草の香りだけがするのだから、それほど2人で一緒にいたということではないのか。あの2人が?
その理由にまさかと思いながらバーカウンターについ視線が向く。考えていることのせいか、いつもは気にならないソテツからケイへの距離感が近いように感じる。贔屓目だろうとは思う。ただ泊まっただけかもしれないが、本当に…?どちらも深い理由もなく家に人を上げるタイプにも思えない。
銀星に話しかけられて、こちらに背を向けるケイ。一方で長く見つめすぎたのだろうか、視線に気づいたようにソテツがこちらを流し見る。そして、またニヤリと笑い、カウンターに置いていた腕をゆるりと持ち上げ、立てた人差し指を口元に当てる。子供に言い聞かせるように、だが表情は完全にこちらを揶揄うそれで、まさかとドキリと心臓が音を立てる。
そのまま声を出さずに口を動かすのが見えた。読唇術など使えないのに、それが何を伝えようとしているのかはっきりと理解出来た。
_____内緒な。
その楽しそうな、こちらを揶揄うような動きに一気に顔が熱くなる。なんと表せば良いのか、親のキスシーンでも見てしまったかのような気分になり、思わず頭を抱える。きっとあれは、私が気付いたことを理解した上で揶揄っている。頭を抱えたまま、やや伏目がちのままちらりとソテツを見やると、カウンターに頬杖をつきながらニヤニヤとこちらを見て笑っていた。いよいよチェシャ猫のような男だ。そのうち笑いながら急に背後に現れそうな気さえしてきた。
今日はしばらくケイの顔をまともに見れる気がしない。どうか、テーブルには来ないで欲しい、だなんて。
***
閉店後、裏口の前にはゴミ捨てを終えた2人のスタッフの姿があった。フロア内の片付けも済んでおり、あとは着替えて帰宅するのみだ。
「なあ、ケイ。」
「何だ。」
そう言って振り向いたケイの顔に突然煙草の煙が吹きかけられる。いつの間に火をつけたのか、煙草を片手にソテツが楽しげに笑いかけている。
「ッッ!なんだ急に。」
「言わなくても意味は分かるだろ?じゃあ、後でな。」
言い終えるなり、煙草片手に非常階段の方へ歩いていく背中を怪訝そうに見ながら、思わずケイの口からぽつりと言葉が出る。
「…やけに機嫌がいいな…?」