袋小路

 走れ。

 

 走れ走れ走れ!

 

 もうどれくらい走り続けているのか。何時間も経っているように感じるが、人気のない、陽の差さない路地裏ばかりを抜けているので時間の感覚も曖昧だ。息が上がり、吸い込んでも吸い込んでも酸素が肺に入ってくる気がしない。陸上にいるはずなのに、水中で無理やり肺呼吸をしている気分だ。考えても思考がまとまらないのは酸欠なせいか、それとも走っても走っても追い立てられているようなこの恐怖心のせいか。

確かに逃げているはずだ。周囲には奴らの姿も見えない。けれど、全身を覆うこの恐怖心は何だ。住人の喧騒も遠く、歩く人間も見当たらない。そうだ、誰もいない。

 

———誰も?

 

ここはスラムを抜けた先の路地裏。いつもなら浮浪者や荒くれ者たちが各自のテリトリーにいるはずだ。それが一人もいない。いったい、どこに。

 

「なに、もう走るの終わりー?」

 

 間延びした声が聞こえると同時に、顔に突然影がかかる。背筋が凍り、スーツの下で冷や汗が流れていくのが嫌でも分かった。後ろに、立っている。頭上から落ちてきたこの声は。

 恐怖で竦む身体を無理やり動かすが、震えているのが自分でも分かった。まともに動きやしない首だけをねじり後ろへ目を向ける。

 そこには予想通りの人物が立っていた。こちらの顔を覗き込むようにしてそこにいた。左右非対称な髪形に間延びした話し方。「気分屋ゆえに少しでも琴線に触れれば海の藻屑となる」、そんな噂さえ立つマフィア・オクタヴィネルの幹部フロイド・リーチ。どこから現れたのか。確かに周囲に人影はなかったはずだ。

 

「フロイド、怯えています。そんなに近づいては可哀そうですよ。」

 

 フロイドの後ろから飛んできた声色は穏やかな言葉に、思わず上がりそうになった悲鳴を無理矢理抑え込んだ。ああ最悪だ。双子の幹部が揃っているだなんて。

 完全に自分のしでかしたことはバレている。敵対マフィアの構成員の甘言に乗せられてやったことも、きっと。でなければ幹部が揃ってやって来るだなんてないはずだ。噂通りだというのなら、裏切り者の拷問も処刑も一人で十分すぎるほどのお釣りがくる。

 身体からどんどん血の気が引いていくのが分かる。絶望的だ。

 

「あはっ、こいつどんどん青くなる~。限界まで青くなったらどうなるのかな~。」

「こら、揶揄うんじゃありませんよ。いくら喋らせるのは簡単でも、恐怖で口が回らない人間なんて時間がかかってしまうでしょう?」

「えー、それはめんどくさい。今日は3人でご飯いくんだから、時間かかんのやだ。」

「僕も御免蒙りたいです。だからほら、早く済ませてしまいましょう。」

「でもこいつもう動かないし、いいんじゃない?もうちょっとで来るでしょ?」

 

 近くに立ったままフロイドが顔だけ後ろに向けてジェイドと言葉を交わしている。会話の内容を理解したくないと自分の中で恐怖心が暴れまわっている。だがもう無理だ。双子が揃っている。どう考えても自分の生き残る方法なんて思いつきもしない。それに、「来る」とはいったい誰のことを指しているのか。

 その時、路地裏の先から足音がした。目の前のフロイド越しに、自然とそちらへ視線が向く。表通りからの光りで逆光になっているが、その姿には見覚えがあった。間違えるはずがない。

アズール・アーシェングロット。服の質に構う余裕などない自分でも分かるほど仕立ての良いスーツに身を包み、肩にかけたストールとハットを被った、その一部の隙もない姿に思わず全身の力が抜ける。諦めろ。耳元で改めて囁かれている。力が抜けて無様にも尻もちをついた。

 

「あ、アズールやっと来たー。」

「お疲れ様です。ご要望通り、きちんと人払いも済んでますよ。」

「ありがとうございます。では手早く済ませましょうか。」

 

 こちらへ目を向けることもなく、アズールへと声をかけながらフロイドが離れていく。ジェイドは既にアズールの隣に立っており、フロイドがアズールを挟んだ反対側で足を止めた。ボスと双子の幹部。新人が加入すると必ず行われる「お目通り」の際に見た並びそのままだ。そうして、視線をこちらに向けるアズールと目が合った。今度は思わず悲鳴がこぼれる。

 

「『お話』が終わった後はどうします?」

「そうですね。話が終わればそれ以上は望めないでしょう。」

「いつも通りじゃつまんなくね?」

 

 間違いなくわざとだろう。こちらにちらりと視線を向けて口を開いたジェイドを皮切りに、目の前で自分の「処理」の話がされている。完全にあちらの思うつぼなのはわかっているが、恐怖で喉から引き攣れた音が出る。

 その音に反応してフロイドが揶揄うように、笑いながら言葉を続ける。

 

「頭から丸のみでもいいよお。」

「全く、あなたは。そんなものを食べてはお腹を壊しますよ。」

「冗談に決まってんじゃん。食べるわけないって。まずそー。」

「ふふ、そうですね。貴方も心配しないでください。食べませんよ。僕らは、ね。」

 

 表通りの明かりが反射して、瞳だけが光って見える3人の会話を聞きながら、意識が遠のいていく。喰われる。ここで意識を手放せば2度と目を覚ませるとは思えなかった。だが、もう限界だ。マフィアへの加入日にサインした契約を破ったのは自分だ。文字通り「海の藻屑」にされる。

失神するでもなく遠のいていく意識の中で、近くの海から吹き上げる潮風の香りがした。自分の口が勝手に動いて何かを言っている気がする。身体に力が入らない。

 

目の前の3人の口が弧を描くのを最後に、意識が途絶えた。

2022-09-08