鴉の瞳に映るのは

血の契約

 

 黒曜というクラスメイトがいる。恵まれた体格に、近寄りがたい狼のような雰囲気を持つその男の左手首には常に青みがかった鈍い藍鼠の数珠がはめられている。ただの装飾品というにはあまりに飾り気がなく、よく言って落ち着いた、悪く言えば地味なそれ。そして何よりいつ如何なる時であっても——夏も冬も制服も私服も、果ては水泳の時でさえ——、常にその手首に鎮座している奇妙さに、一体どんな意味があるのか、誰かから貰ったものなのかという噂が時折立っては答えが出るでもなく消えていく。

 加えて、この男の首にはその頸動脈に沿って大きな傷跡があった。同じ中学出身だというクラスメイト曰く、中学の入学式の時点で既にあったらしい。しばらくして尋ねては見たが、「ちょっと死にかけただけだ」と何でもない顔で、世間話かのような平坦さで返されたその言葉に詳しく聞くのは憚られた、とつい先日話していた。

 

 首元の謎の傷跡に、手首の謎の数珠。

 分からないことだらけの男に、直接話しかけたことはない。けれど、恐らくあの男も「視える」のだろうと思っている。

 

 昔からぼんやりとだが、所謂『霊』だとか『妖』だとかいったものを認識していた自分の目には、あの数珠とそしてあの首元の傷がまるで神社で見る狛犬や土地神と同じように視える。正しく言えば、数珠はご神体と同じようにぼんやりと淡く光って視え、傷跡は土地神が触れた絵馬やご神木のように、数珠よりも薄いが確かに加護がついているようだった。色からするに、別に襲われたり洗脳されたりしているわけではないようで、ますます何故あんなものを持っているのかと疑問に思う。友好的な妖か神だかに気に入られているのだろうか。人を好む化生の類は珍しくもないが、ただ友好的なだけのものは少し珍しい。こんな内容を誰かに相談できるわけもなく、今日も疑問は解消されないままだ。

先日、肩に鴉が留まっているのを思わず凝視してしまったが、あの鴉はそれに関係したものだったのだろうか? 周囲にも人はいた気がするが、そういえば何も噂になっていない。あれはいったい何だったのだろう…?

 

 砂と草葉を踏みしめる靴音が無人の山に響く。何度も通っても、ただの一度も人間と出会ったことはない。元はきれいに整備されていたのだろうが、使われなくなって草木が生い茂りほとんど地の部分が見えなくなっている石階段を登り、樹々の間を縫うように伸びた道を進む。耳を澄ませても街の喧騒は一切届かない。風に揺れる木の葉の騒めきだけが耳に入る。

 その道を抜けると、半円の形をした開けた空間に出た。半円の弧の部分に道が繋がっており、少しばかり足場が悪い。

 

「来たか」

 

 ともすれば樹々のざわめきに消えてしまいそうなほど低いその声に、足元に落ちていた視線が上がる。

 寂れた祠の前に鎮座する、崩れて片脚しか残っていない鳥居の上に声の主がいた。見上げるとちょうど太陽と同じ位置に座っており、目を刺す光に思わず顔をしかめる。逆光で向こうの表情も見えない。ただ黒々としたシルエットだけが見え、ますます鴉のようだった。

 落下するかのように、ぐらりと傾いたその影が鳥居を蹴って降りてくる。蹴られた鳥居は力など与えられていないかのように、元のまま、崩れかけたまま静かに建っている。

 ばさり、と音がして視界に映った影が広がる。本人の体躯より明らかに大きな翼がその背中で広がり、一つ二つと辺りに羽が飛んでいる。翼を広げた拍子に外れたそれらは、音もなく地面に落ち、そうしてぼんやりと輪郭を失って消えた。

 それを目で追っている間に、その影も重力を感じさせない動きで着地し、静かにこちらを見ていた。

 黒い狩衣に、それよりは薄い灰色の袴。その上に赤い梵天のついた透けた素材の羽織を着ている。以前、丁寧にそれぞれ名前を語っていたが、未だにさっぱり覚えられないままだ。

 

「黒曜」

「よお、シン。また街でも見てたのか」

「ああ。命の鳴動は遠く静かなこの地で見る方がふさわしい」

「あ?…あー、そうかよ」

 

 ちらりと足元を見ると、三足の鴉の脚が見えた。その時の気分で人か半妖かの姿をとるシンは、時折脚がそのままだったり爪がやけに長かったりしていた。幼い頃は座らされた膝の上から手を伸ばし、脚先をつついたものだ。三足ということは先ほどまで飛んでいたのだろうかと少し疑問に思うが、語らないのなら特段気にすることもないだろう。

 

「厄介なものに遭遇したようだな」

「ああ、なんか黒い変なのがいたな。喋ってんだか何だかわかんなかったから取りあえず殴って振り払ってきた」

 

 左手首の数珠に目を向けながらかけられた言葉にそう返すと、小さくため息をつかれる。

 

「全く…。左で殴ったな? いかにお前でも、直接触れるには少々厄介な類だぞ、あれは」

「何度も言われてんだから分かってる」

 

 言葉を交わしながら近寄ってくるシンに、シャツを雑に捲って差し出す様に左腕を伸ばす。その腕を静かに掴んで、数珠に触れるシン。と、一瞬雷でも奔るかのような光が辺りに広がる。光が収まって数珠を見れば、薄く纏わりついていた黒い靄のようなものが消えている。

 シンの周囲には早々厄介な妖は寄ってこないのだが——霊力とやらが強いらしい。詳しいことは知らないが——、その加護の付いた数珠に纏わりつくくらいだ。本当に面倒な奴だったのかもしれない。昔から視えるし聞こえるし触れるが、その霊力とやらの強弱はよく分からないままだ。なんとなく害があるかどうかは察せられるのでそれで十分だろう。

 軽くなった腕を確かめるように手のひらを開いて閉じて動かす。その間に小さく布の擦れる音がして顔に影がかかる。そのまま首の傷跡に触れる熱を感じた。シンの体温は妖だからなのか特段高くはないのだが、指先に何かを込めているらしく、いつも傷跡に触れてくる指はしっかりとした熱を含んでいる。鏡で見ても映りはしないが、以前水面を覗いた時に数珠と同じような光り方をしていたので『加護』とやらをつけているのかもしれない。

 

「サンキュ」

「構わない。だが、少しは避けて通ることも覚えろ」

「最悪あんたんとこに走ってくればいいんだからいいだろ。明らかに狙って来てんのに、わざわざ避けてやる義理なんざねぇよ」

「大抵の怪異はお前に牙が届くことはないだろうが、最近妙なモノが来ている。しばらくは大人しくしていろ」

「向こうから寄ってこなけりゃな」

 

 そう返して祠を覆うように立っている樹の根元へと足を向ける。シンのところへ来ると、大抵少し話をしてここで眠ってから帰る。幼少からの刷り込みもあるだろうが、この辺りに広がるシンの気配は落ち着くのだ。眠るにはちょうどいい。

 呆れたような顔をしているのを振り返った肩越しにちらりと見て、そのまま身体を横たえる。珍しく街を飛び回ったり見張ったりしているようなので、注意は必要なくらいの危険性はあるだろうが、どうせそのうちシンが祓ってしまうだろう。その前に遭遇したらその時はその時だ。最悪数珠でシンを喚ぶこともできるらしいのだから、どうにでもできるだろう。

 すぐそばに座る音を聞きながら瞼を閉じた。その耳に、小さく落ちた声は聞こえないふりをした。

 

「お前は本当に変わらないな」

 

***

 

「この数珠を片時も離さず持っていろ」

「なんだこれ」

「俺の力を込めたものだ。それを持っていれば大抵の妖はお前を追い回しはしなくなる」

「ふーん…。わかった」

「…お前が大人になったその時は、きっとお前の眼にも俺は見えなくなるのだろうな」

「みえなくなるのか?」

「恐らくは。多くの人間は成長に伴って見鬼の才を失う。そうして視えていたことさえ忘れていくものだ」

「やだ。かってにきめるな。おれはわすれないし、みえなくならない」

「っ、…そうか。お前が言うのなら、そうなのだろうな。少し楽しみだ。

 だが、仮契約では加護を維持できないだろう、その時は————」

 

「黒曜、お前が選べ。覚えていれば、だが」

 

***

 

 瞼を開けて身体を起こす。随分と昔の夢を見ていたらしい。首の傷を負ったすぐ後の記憶だ。あの時の言葉を思い出しながら、今日は何日だったかとベッドサイドに転がっていた携帯を手に取って画面を見る。二十歳になるのは、明日だ。

 

 癪だが、夢のせいかなんだか落ち着かなくて着替えてすぐに家を出た。朝焼けが目に痛い。肌に触れる風は、日の昇りきっていない気温のせいで冷たかった。どこへ行くでもなく足を動かしたが、気付けばシンの祠の近くに立っている。

 

「シン」

 

 小さくその祠に、樹に呼びかける。らしくもない。だがなんだか、声を張り上げるような気分でもなかった。

 

「どうかしたのか。今日は随分と早い時間に来たな」

 

 後ろから、しっかりと返ってきたその声に訳もなく安心感を覚える。視えなくなる、認識できなくなる不安などそれこそ夢で見たあの時以来のことだ。

 

「明日、…二十歳になる」

「…そうか。早いものだな」

 

 視線も合わせずにそう口にした言葉に返ってきた言葉はやけに平坦だった。振り返って視線を合わせると、シンが口を開いた。

 

「明日、お前が二十になると同時にその数珠は効力を失うだろう。現在この国では二十歳が『大人』と認識されている。その『人の念』が、効力を失う瞬間を左右するからだ」

「それはこのままだったら、って話だろ」

「…そうだ」

 

 言いにくそうな顔をしているシンを珍しいなと思いながら、今朝見た夢を思い返しつつ言葉を続ける。

 

「あの時、あんたは仮契約だって言ってたな」

「覚えていたのか」

「いいや? 今朝思い出した。だからここに来たんだよ」

「一度契約を結べば、解除することはできない。…死んでもだ。それでいいのか」

「いいんだよ。どうせ俺は変わらず視えるしあんたに会いに来る。変わらねえだろ」

「…そうだな。何を語ってもお前はきっとそう言うだろうと、思っていた」

「予想通りってか。じゃあいいだろ。あんたのことだ、どうせできるようにはしてたんだろうが」

 

 少し驚いた顔をして、その後に緩んだ雰囲気に何だか面白くなって笑いがこぼれる。今更死んだくらいで離れるのも気に食わないのだ。死後の話など死んだ時でいい。何にせよ、自分の決定に後悔することはないだろう。

 小さく口角を上げたシンが静かに腕を持ち上げる。胸の前で右の手のひらを軽く広げたそこに、視認できるほどの風が寄り集まっていく。手のひらに小さな台風でも起きているような様を久しぶりに見るな、とまじまじ見てしまう。集まった風が消えるとその手の爪が伸び、鋭利に尖っている。鳥脚にまで変化はさせなかったようだ。

 何をするのかと、言葉にするでもなくシンの瞳を見る。

 

「本契約は血を使う。互いに傷をつけて傷口を合わせてその血を混ぜる。昔から、血は媒介だからな」

「へえ。どれくらい切るんだ?」

「小さくていい。互いの了承の上で行うものだからな。それほど血の量は必要ない」

「ん。さっさとやろうぜ」

 

 左腕を特に躊躇もなくシンに差し出す。どこを切るのかと見ていると、指先を小さく爪が掠めていく。爪の通った跡、ぷくりと赤い血が浮かび上がるようにあふれてくる。そのまま同じようにシンも自身の左手の指先に一瞬で傷をつける。不健康そうな肌の色に、赤い血が浮かぶのに言いようのない感情を覚えた。流れている血をそのままに、シンが再度こちらを見る。

 

「本当にいいのか?」

「いい。あんたこそいいのかよ」

「…ああ。お前に数珠を渡した時にこうなる気はしていた」

「はっ、なんだそれ」

 

 笑いつつ、血が流れたままの指をシンの指へと近づけていく。手のひらを上に向けたままのシンの指先に、自身の指先を触れ合わせる。どうやるのかよく分からないが、何も言わないところを見るとこれでいいらしい。そのまま、すり込むように血を押し付ける。と、いつもは数珠から感じていたシンの気配——おそらくこれを霊力と呼ぶのだろう——が自分の身体に入ってくるような感覚を覚える。自分の中に何かが入ってくるというのは初めてのことだったが、どうしてか不快感はなかった。

 しばしの沈黙の後、周囲に風が集まる音がする。徐々に大きくなっていく音を聞きつつ周囲に目を向けると、そのまま寄り集まった風が自分たちの近くに収束していく。瞬間、轟々という音を立てながら、祠の周囲の樹々の方へと風が一気に流れていった。突風で着ていたシャツの裾がめくれあがって腹の上からそのまま首へと風が吹き抜けてバタバタという音がうるさかった。とっさに目を閉じて風が収まるのを待つ。さして長くもない前髪が目元を撫でているのを感じた。

 音が止み、周囲を確認しようと瞬きをしつつ顔を上げる。その合間に視界に映る自身の前髪の色がシンと同じ色だったような気がして、思わず手を持ち上げて触れた。だが、掴んで透かして見ても色はいつも通りだ。契約で何か影響があるのかと少し疑問に思うが、変わっていないのだからひとまずは構わない。それよりもなぜだか感じる疲労で身体が重かった。

 

「契約は体力を使う。少し休め」

 

 徐々に力が抜けていく身体を受け止められ、シンの匂いが鼻をかすめる。それを聞きつつ、無理やり足を動かして樹の根元に倒れ込むように寝転がった。視界に映る草の輪郭がぼんやりと霞んで見える。瞼が重く、瞬きの回数が減っていく。息を吸い込むと草と土に匂いが鼻を抜けて、知らないうちに安心してか力が抜けていく。いつも通り、少し眠ることにしよう。そうやって巡らせる思考をよそに、瞼が閉じていった。

 霞んだ視界に映った黒い脚に腕を伸ばそうとして、重さを感じてあまり持ち上がらない。少しだけ浮いたその腕をそっと受け取ったシンの体温はやはり、低かった。

水鏡

 

 家を出ると、夜の間降っていた雨で地面が濡れていた。ちらほらと水たまりにも成りそこなった雨が道端に広がっている。それらを特に気にするでもなく、直進して踏みしめる黒曜の足元で水が撥ねてその靴にかかった。

 住宅街を抜けて少し開けた大通りに出たところで、立ち止まって信号が変わるのを待つ。そのすぐそばにできた水たまりが朝日を反射して光っていた。それが少し気になって足元に視線を向けると、そこに映った自分の髪色がシンと同じ色になっている。思わず気のせいかと凝視するが、やはり色が違う。いつもならば赤い髪が映るはずのそこには、シンと同じ髪色をした自分の間抜け面が映っていた。

 呆気にとられる黒曜の耳に、歩行者信号の青へと変わった音が届く。その音で我に返って少し急ぎ足で信号を渡ったが、脳裏には先ほど水たまり越しに見た髪色の違う自分の姿が焼き付いていた。

 本契約時に視界に入った前髪の色が変わって見えたのは気のせいではなかったのか? そもそも本契約をすると髪色が変わるものなのか? 変わったのは、自分だけか?

 幾つもの疑問が浮かんでいくが、その辺りのことはシンが話していた内容しか分からない自分では解決するはずもない。聞きに行く方が早いか。

 その思考はそのままに、いつもなら気にも留めないカフェのガラスに反射する自分の姿が目に入った。そこに映る自分の髪色は、変わらず赤かった。ますます意味が分からない。

 腕を持ち上げて摘まんだ前髪を直接見ると、視界に映るそれはシンと同じ色をしていた。どういう原理なのか、全く理解ができなかった。霊力がどうだとか言うのだろうか?

 

 立ち止まって頭を悩ませる黒曜の上から、カア、と鴉の鳴き声が一つ降ってきた。

 

「何かあったか? 本契約を終えたことで大抵の妖力は弾けるようになっているはずだが」

「ああ、……?『妖力』?『霊力』じゃねぇのかよ?」

 

 翼を広げたまま静かに隣に降り立つシンの言葉に、尋ねようと思っていた髪色の話をするよりも気になってそちらへの疑問が口から出た。シンと出会ってから散々『霊力』の話は聞いていたが、『妖力』とはいったい何のことなのか。

 

「?

 俺の力は確かに『霊力』だが…、まさか妖の力全てを『霊力』と思っていたのか」

「あ? 違ぇのかよ?『妖力』なんて聞いた事ねぇぞ」

「…、話したことはなかったか…?」

「ねぇな」

 

 驚いていつもより少しだけ瞳の開いたシンを最近はよく見る気がするなと思いつつ、思わずといった風に額を手で押さえるその姿を見つめる。その髪色は変わらず藍鼠色のままだった。

 

「どのような妖であれ、その力を『妖力』と呼ぶ。一方で、俺のような八咫烏は妖の一種ではあるが、その成り立ちから神の遣いとしての意味合いが強い。それゆえにこの力は『霊力』と呼ばれる。個体差はあるが、基本的に妖は神よりも力が弱く、『霊力』であれば『妖力』を弾くことが可能だ。

 お前に流れ込んだそれは、『霊力』だ」

「ふーん? あんた説明すんの忘れてただろ」

「…すまない」

「まあ、名前はどっちでもいいけどよ」

 

 少しばつの悪そうな顔がやはり珍しくて、思わず口角が上がってしまう。名前などそこまで気にするほどのことでもないと思うが相変わらず律義だ。

 

「なあ、関係してんのかは知らねぇけど髪の色って変わるもんなのか」

「ああ、髪か。多少はそうだな。俺の力が今、お前に馴染んでいく段階にある。その影響で一時的に髪色や目の色が移ることがある、という話だ。それも力のある者にしか視えない上、霊脈の影響を受ける水鏡でしか映らない。自分の力を渡すのは初めてだが、…なるほど。悪くはない」

 

 口元を小さく緩めながらこちらの髪を見て笑みを浮かべるシンは存外満足気で、まあ構わないかと納得して一つ頬を指で掻いた。

 その黒曜の眼がただの一瞬だけ藍鼠色に輝いたのを、シンだけが見ていた。

 

数珠

 

 婚約指輪は左薬指につける。

 中学に入る前のことだった。初めて耳にしたその情報に首輪みたいだなとぼんやり思った。

 

 左薬指に指輪があるから結婚してるだのロマンチックだのキャーキャー騒ぐクラスメイトの声に思わず眉間に皺が寄る。ただでさえまとわりつくような梅雨の湿気で気が滅入るのに、響くような高音を耳にするのは頭が痛む。

 聞こえてくる声を追い出すかのように窓の外に目を向け、しとしとと降り続ける雨を見るともなしに視界に映す。

 

————「身体が育つまではすぐに落ちてしまうだろうが、この数珠はできるだけ左腕につけていろ」

 

 雨を眺めながら、脳裏にシンの言葉が過ぎる。

 数珠を渡されてすぐだったか、キイキイよく分からない言葉を話す妖に狙われたのを助けられた時の事だった。その妖と目があって、逃げようと身体を引いた瞬間に割り込んできた黒い影に庇われ、気付けばその妖は消えていた。あまりに一瞬のことで、何故ここにいるのか、あれは何だったのかと聞くよりも前に数珠を持っているかと尋ねられて、分からないまま「持っている」と返した。その後、少し安心したような表情で口にした言葉。

 指輪と数珠の共通点などないし、左というだけでそれを思い出したのを我ながら安直だなと思う。これはそんなポップスにでも歌われるようなお綺麗なものじゃない。いくら詳しくなくても、この数珠に込められた力がただ『護る』だけではないことは分かっている。かと言って『縛る』と言えるほど強くまとわりつくでもなく、緩やかに数珠を中心にシンの気配がする風が吹き、定期的に頬を撫ぜていく。囲うつもりはないようだが、ただ見守っているわけでもない。

 少し警戒しろと当の本人がぼやいていたが、そうやって口に出して線を引こうとするからこちらは警戒していないというのに。わざわざ言い聞かせるように語る、ヒトである自分とヒトならざるシンとの間に引かれた境界線がきっと、シンにとっての防衛線でもあるのだ。その線が腹立たしい時もあるが、それを越えるのは、今ではない。

 窓の外の雨が徐々に弱まってきた。雨雲の隙間から陽の光が差し込み、水たまりに当たって反射する。少し気になって校門近く、石畳の上の水たまりに目を向けると、電柱の上に留まる鴉と水面越しに目があった。電柱へと目を向けるといつの間にそこにいたのか、黒い羽が文字通り濡羽色になって陽を受けてきらきらと光っている。

 ばさりと翼を広げて、体を覆うように前で交差させた。それを視界に入れたまま瞬きをする。と、その瞬きの一瞬の間に鴉は姿を変え、人型をとったシンがそこに立っていた。

 わざわざ学校にやってくるのも、見える位置にやってきて人型をとるのも珍しい。顔を見るに、何か話でもあるらしい。少し首を傾けてシンを見つめていると、HR終了を告げる教師の声がした。嫌味なほどタイミングよくやってくるなと雨の中電柱に立っている男のことを考えながら、薄っぺらな指定鞄を掴んで席を立つ。ほとんど重量の感じないそれを肩にかけて、換気のために開かれたままの扉を潜って廊下へ出た。ざわざわと生徒で騒がしい廊下を足早に通り抜け、下駄箱で雑に扉を開けて靴を履き替える。そうして外へ出ると、より一層じっとりとした湿気が肌に纏わりつく。生ぬるい風が頬に当たるのを感じた。ぽつぽつと時折降ってくる雨粒がその風に吹かれて顔に当たる。

 下駄箱を出て空を見上げていたところで、耳元でバサバサとはばたく翼の音と共に肩に烏一羽の重みがかかる。シンの眷属の烏だ。その赤い瞳が光を反射してきらりと光った。普段は視えない人間にも見えるようだが、すれ違う生徒がこちらを気にしていないのを見るに、今日は視えない状態にしているらしい。話すことこそしないがこの烏が賢いことは身をもって知っている。まだ身体の小さかった時に何度も妙な妖から逃げるのを先導して助けられた。毎度タイミングよくシンが助けに来ていたのもこの烏たちが知らせてくれていたからだ。

 それにしても、ただでさえ学校に来るのは珍しいというのに烏まで連れてきているとは。一体何があったのだろうか。

 気配を追って足を進めれば、丁度正門の上にその男は座っていた。肩に留まっていた烏が報告でもするかのように一声鳴いて、シンの横を通って飛び去って行く。門扉を支える柱となったブロックの上。目線よりやや高いその位置に祠にいる時と変わらぬ姿で座っている。下校する生徒がその横を一切気にした様子もなく通り過ぎており、視えないのをいいことにどこに座っているのかと少々怪訝な顔をしているのが自分でも分かった。

 

「なんかあったのか?」

「影が近くを彷徨っている。烏がそれを伝えに来た」

 

 傍から見れば気にならないほどの一瞬の間、思わず校門の近くで止まりかけた足を動かして横を通り抜ける。その背をシンが音もなく翼を広げて追いかけてきていた。そちらに視線を送ることもなく、前に定めたまま会話を始める。

 

「前にいた奴か?」

「ああ。お前は言っても避けないだろうと思ってな」

「まあそうだな」

 

 話しながら、人気のない寂れた神社へと足を向ける。街の中に突如現れる石の階段を登った小高い丘に位置するそこはめったに人が寄り付かない。人が来なくなったから寂れたのか、寂れたから人が来なくなったのかは定かではない。しとしとと降り続ける雨がその社へと落ちていく。社の中へ食い込むように数段上がった先、もはや意味をなしていない賽銭箱の横に伸びる縁側のようなそこは、被さった瓦屋根のおかげで濡れてはいなかった。そこにさして重みもない鞄を投げ、音を立てて腰を下ろす。その隣、賽銭箱とは反対側にシンが静かに翼をたたんで柱に寄りかかる。外部からの干渉を受けないように神気を調整していたらしく、その身体も衣服も一切濡れてはいなかった。

 

「黒曜」

 

 そう名前を呼んだシンに左腕につけた数珠を見せる。前回シンと話してから、妙なモノには遭遇していないが気がかりなようなので好きにさせる。青白い指先がシンの髪と同じ色の数珠を撫でていく。

 それを見ながら、教室で聞いた会話をふと思い出した。

 

「なあ、なんで左腕なんだ?」

「ふむ…、それに首輪の意図はないぞ」

 

 心でも読まれたかのような返答に、思わず顔を見つめる。シンの前で一言もその内容を口にした覚えはない。

 

「お前の考えそうなことだ。力を持つ狼には鉄鎖は意味をなさない。紐ならばふさわしいかもしれないが、俺はお前を岩に縛り付ける気はない」

「あ?…わかりやすく言えって。結局なんで左なんだよ。」

「心臓に近いからだ。」

「は?…っは、マジかよ。」

「人間の認識が作用するがゆえに、お前が考えているような『左』という意味合いもなくはないが。重要なのはそちらだ」

 

 いつも通りの言葉遊びを聞き流すと、思ってもいなかった言葉が返ってきた。一瞬理解が追い付かずに呆ける。一拍の後飲み込んだそれに、耐えきれず吹き出してしまう。考えもしなかった返答だ。「そもそも指輪の文化はこちらのものではない」と素知らぬ顔で続けるシンの言葉を聞きながらも笑い声が口から漏れ続ける。風で揺れ、騒めく木の葉の音に重なるように、自分の声が響いていた。

 確かに言われてみれば心臓は左側だ。思い返せば首を斬られた時も、そんな話をしていた気がする。血の流れがどうだ、とか。あの時は説明されても良く分かってはいなかったが。

 

「実際、心臓の位置に印を刻む方が防御の意味合いでは効率がいい。——最も、それ以外の弊害が大きいから数珠の形をとった。それだけの話だ」

「そうかよ」

 

 心の臓に近いから左腕につける数珠。それは確かに今日耳にした『指輪』とは確かに違う。しっかり聞いていたわけでもないが、そんな血腥い話ではないだろう。

 血まみれの二人組を想像して、また更に笑いが込み上げてきた。別に面白いことを言ったつもりはないのだろう、表情は変わらないが少しばかり不満げなシンが、黒く、先の尖ったそれで数珠に小さく爪を立てた。左腕につけたままのそれが、曇天の下でぼんやりと光を放った。

 

 

 烏がいつもとはあり得ないほど騒がしく落ち着きのない音を立てながら飛んでくる。いつもならば一定の間隔で繰り返される羽音が乱れていた。つい先ほど、黒曜につけていた烏が警告を発するような念を送ってきたばかりだ。嫌な予感がする。数百年ぶりの集会など放っておいてあの街にいるべきだったか。

 周囲で盃を傾ける様々な神たちに一言捨て置くように退出を告げて席を立った。そのまま襖を開いて欄干に足をかけ、蹴るようにして空中へと身体を投げる。高台にある座敷が今となっては好都合だった。正面に近づく烏と合流し、翼を大きく広げてそのまま旋回する。

 近づけば近づくほどますます様子のおかしな烏が発した言葉に思わず舌打ちが出る。

 

「黒曜が襲われている」

 

 広げた翼を一つ羽ばたかせると、そのまま霊力を上乗せして一気に加速する。すれ違うように横を通過した烏への「後から来い」という念は果たして届いただろうか。気遣う余裕もなくそのまま街の方角へと急いだ。

 視界に映る青と白が徐々に薄れて、街が遠目に見える。そこに感じる禍々しい気配に再び舌打ちを一つ。仮にも神仕えの身である自分の霊力を一瞬であっても脅かし、街に侵入するとは。相当に厄介だ。ここ数十年でヒトとヒトならざるものの間には隔たりが出来つつあり、その余波で妖共の力も弱まっているというのに。

 耳元で風を切る音が響く。黒曜の気配を辿って遠目を使えば、見慣れた赤が見えた。が、その赤の周囲に、赤黒い血が広がってるのも見えた。思わず頭に血が上る。黒曜に纏わりつこうとしている気配に、どす黒い感情が沸き上がる。末席でも神の眷属らしいその思考が湧いたのは長く生きてきた中でも初めてのことだった。

 

 それは、俺のものだ。

 

 黒曜の向かいで蠢く妖へ一切の躊躇なく霊力を込めた羽を飛ばし、襲い掛かろうとしていた動きをそのままねじ伏せる。突如飛んできた羽に反応できなかった妖が地面に縫い留められつつも複数ある目玉でぎょろぎょろとこちらへ反撃しようと視線を飛ばしている。それを視界に入れつつ一瞬で手に風を纏わせ、一つ振り払って自らの化生を解き放った。

 腕を包むように巻き起こり、轟々とけたたましい音を立てていた風が一瞬の内に消え去る。払われた風の下からでてきた腕は肘まで黒く、鳥脚と同じ肌で覆われている。尖り、伸びた爪へと力を込め、そのまま妖の急所、妖力の寄り集まっている箇所へと突き刺した。

 溶岩の沸騰する音にも似た不愉快な音を立てながら、最後の足掻きでもするようにシンの腕に纏わりつこうとしたその妖がどろりと粘液状へと変化していく。その表面は沸騰する水のように時折泡が立っては割れていった。突き刺したままの手のひらに感じる核を握りつぶすべく指先に、爪に、力を込める。

 自らの霊力を周囲に展開させるようにして、空中へ羽を何枚も何枚も浮かび上がらせる。力を込めて刃物のような鋭利さを持ったその羽の矛先は当然、その妖だ。複数ある目玉が黒曜を『見る』ことで呪いをかけた可能性もある。懸念事項は、徹底的に潰しておくべきだ。

 

「穿て」

 

 口に出すと同時に核を握りつぶし、宙に浮いた羽を一気に突き立てる。霊力に加え、とどめのように言霊も乗せたのだから、並大抵の妖ならば霧散する。八咫烏という神に仕え、知らせを運ぶという性質上、そしてこの国の霊力の作用の仕方の関係上、『言葉にする』という行動が爆発的な強化となる。背後に庇った黒曜の確認もしなくてはならないのだから、過剰であろうと的確に一撃で潰す必要があった。

 その目論見通りに霧散する躰を風で雑に包んで上空へと放り上げる。霊力を纏わせた風で包んだことで、その妖力を打ち消すことも忘れてはいない。

 そうやって消え去った靄を気にも留めることなく、身体ごと振り向いて背後の黒曜へと視線を向けた。その首に、斬りつけられたのであろう、頸動脈に沿って大きな傷ができていた。未だに流れ続ける血の匂いが、噎せ返るように辺りに充満している。その小さな身体を抱き起こし、凭れさせる体勢で自分の腹部と黒曜の背が触れる位置へと移動させる。ぐったりとした黒曜は薄っすらと瞼が開いてはいるが、意識が朦朧としているらしい。定まらない視線を遮るようにその瞼を手のひらで覆い隠す。

 思わず祓った妖への殺気が溢れそうになったのを小さく息を吐いてごまかし、次の行動を練る。この血の量ではかなり不味い。急ぎ対策をしなければ、出血多量に加え、黒曜の血に釣られてまた別の妖が来る可能性が高い。この子供の血にはそれだけの力があった。——だからこそ、常日頃こちらが警戒して圧をかけていなければ妖がすぐに襲いに来るのだ。

 シンの脳内で急速に思考が巡る。即座に引き剥がし、斬りつけた妖は完全に祓った。だが、その残滓はまだ微々たるものではあるが残っている。あまつさえ、頸動脈という血の多く流れる箇所に傷をつけ、未だに流れ続けている血の影響であの妖の力が黒曜に流れ込まないとは限らない。それがなくとも、シャツの色が変わるほど盛大に流れた血の量にこの小さな体は耐えられないだろう。

 応急処置として、爪を立てて心臓に印を刻むか?——今の黒曜の体躯では無理だ。首の傷のせいで流れた血に加えて爪を立てては出血多量でもたない。なにより即座に眷属化してしまう。ヒトでは、なくなってしまう。それも、本人に選ばせないまま。

 心臓の上、その皮膚ではどうか?——眷属化することに変わりはない。

 

 ではやはり、とれる方法は一つだけだ。

 

 一瞬の内に巡った思考にけりをつけて、左腕で黒曜を抱き起したままシンは自分の親指の根元へ噛みついた。いつもの平静さを保つ余裕がないせいで、只人よりは尖ったシンの牙がその肌へぶちりと突き立てられる生々しい音が風音に紛れて消えていく。そうしてそのまま小さく巻き起こる風に包まれた右の肘から指先までが人型の形をとり、噛みついた跡からは血が流れ続けていた。風でめくれ上がった右袖の下で、相も変わらぬ青白い肌の上に流れる血だけが異質だった。逸る思考でそこへ回す余裕がないのか、黒曜を支える左腕の形は鳥脚のままだ。

 肌の上を滑らせるように指先まで血を垂れさせ、その赤く染まった人差し指で黒曜の傷に触れる。撫でるように指を滑らせ、その血で覆うように保護をしていく。その指先にも塗る血にも力を込める。

 自分の霊力で黒曜の血の匂いを覆い隠し、更に包むことで疑似的な眷属化を行う。黒曜の意識は定まったものではないが、互いの血を使うことによって仮契約としては充分だ。幸か不幸か、頸動脈という傷の位置も都合が良かった。心臓から押し出される血が全身に巡る際、シンの力を拾ってその血液を媒介として全身へと広がっていく。残念ながら治癒に特化した力は持ち合わせていないため、この傷を即刻治療してやれないことが歯がゆいが、それでも人の治癒能力を促進してやることはできる。表面だけでも塞いで、その上に自分の力で加護をかける。都度、加護をかけ直す必要は出るがその程度、手間というほどでもない。

 そしてこれは全霊力を込めるわけでも、契約のための儀式もない仮のものであるため、黒曜が『子供』である間にのみその効力を発揮する。そういう限定した契約を選択したのは、咄嗟の判断だった。このままここで自分の領域に組み込むことも可能だが、それは黒曜自身が判断して決めるべきことだ。本人の確認なしに引きずり込むことは、できなかった。

 どくどくと頸動脈の上にのせた人差し指から黒曜の鼓動を感じる。少し浅い息が徐々に落ち着きを取り戻していく様に安堵しつつ、周囲を確認する余裕も出てきた。念のためにと簡易の結界を張り、吹けば飛び去ってしまいそうな身体を支えながら器用にも狩衣から腕を抜いてするすると脱いでいく。それを黒曜に掛けて狩衣ごと抱きかかえるように掬い上げる。体温の温存もあるが、常に着ているおかげで霊力の沁み込んだ狩衣は保護に使うにはちょうど良かった。

 血が治まったとはいえ、あまり動かすことは得策ではない。結界を疑似的な神域展開のための核とし、周囲の人間からも妖からもここに居ると認識できないように、かつ近づくことができないように無意識下へと作用する人避けもかけておく。

 烏が一つ鳴いて周囲を警戒するように旋回しながら飛んでいる。その羽の音に耳を傾けていると、瞼を覆った手のひらに不規則に瞬いた睫毛が触れるのを感じた。

 

「しん…?」

「ああ、ここにいるぞ」

 

 小さく舌っ足らずな呼び声に言葉を返す。回復にまわす体力で力が入らないのか腕にかかる重みはいつもよりも幾らかずっしりとしている。それでもまだ片腕で抱えられるその体躯に改めて種族の違いを突き付けられる気がした。

 言葉が返ってきたことに安心したのか再び瞼は閉じられ、覚醒しきっていない幼子の意識もまたそのまま眠りについた。

 腕の中で呼吸が落ち着いていくその姿に小さく息をついて、揺らさないように立ち上がる。布越しに伝わるその体温は変わらず高かった。知らず力の入っていた腕にその熱が伝わりほぐれていく。この小さくひ弱な身体が成長するのは、人ではない自分にとってはきっとすぐのことなのだろう。長く生きてきた中で人と深く関わるのは黒曜が初めてのことだが、それが少しばかり楽しみだった。いつも遠くから時折見守っているだけの人間たちは気が付けば大きくなり、年老いて、死んでいく。この腕の中の子供も、いつか見送ることになるのだろうか。

 思考はそのままに抱えた黒曜を一度緩く抱きしめ、その額に口づけを落とす。鼻を掠める血の匂いの奥に、幼子特有の甘い匂いと、それに混じるように自分の血の匂いがした。

 

 可能な限り振動を伝えないように祠まで飛んで運ぶ。仮契約を行ったことで、シンが触れている間は人界のものからの干渉を断つことも可能になり、只人にはその姿すら捉えることができないのは好都合だった。

 重力を感じさせない動きで、祠のある樹の根元へと降り立つシンの姿は名実ともに神の遣いのそれだ。——ここにあるのは、遣いであるシンと傷ついた幼子の黒曜だけだが。

 頂点を少し過ぎて落ち始めた陽の光が、抱え込んだ黒曜に差す。光に反射した赤い髪がただ美しいと思った。

 先ほどの妖の残滓が漂ってはいないかを確認しようと、一度樹の根元にくるんだ狩衣ごと下ろそうと腕を緩めて身体から離していく。が、思ってもいなかった力に妨害される。視線を下ろせば、意識もほぼなかっただろうにいつの間に掴んだのか黒曜の小さな手が衿の辺りをがっちりと掴んでいる。

 予想もしていなかったその動きに思わず笑ってしまう。意識の有無に関わらず、これだけ無遠慮に接触してくる人間は本当に初めてだ。仮契約を行っても特に反動もなく熟睡している様子も踏まえれば、黒曜はやはり今まで見てきた人間とは少し違うのかもしれない。贔屓目かもしれないが、抱えた幼子との縁が長く続くような予感があった。

 黒曜が目を覚ましたら、まずは疑似結界用の数珠を渡すとしよう。人間に与えるのは初めてのことだが、集会で同族たちが話すのを何度か耳にしたこともある。聞いた話を思い出しながら、黒曜を抱えたまま樹の根に寄りかかって座る。左腕だけでそれを支えて、右の手のひらで風と力を練って数珠を作り出していく。

 狩衣を脱いだ下の着物は袖がなく、黒曜の熱も鼓動も良く伝わってくる。小さく身じろいて狩衣に顔をうずめたその姿は、随分と昔に一度保護した山犬に似ていた。

 人のいない祠の周辺には、風に揺れる木の葉の音だけが響いていた。

 

擬態

 

 用事を済ませてシンの祠にでも行くかと考えながら街中を歩いていた黒曜の視界に、見慣れた髪色が飛び込んできた。あまり見かけない色だが、思い浮かべた男——というよりは鴉?——が街中にいるのも珍しい。思わずその背を追うように足を進めると、人混みから一つ二つ頭の抜き出たその男が身に着けた服が見えた。当然と言えば当然だがいつもの和服ではなく、ジャケットを羽織ってパンツを履いているらしい。が、今の季節は夏だ。どう考えてもあっていない。見ているだけでこちらが疲弊するようなその格好に、つい「あっつ」と声が漏れた。

 じりじりと焼きつけるような日差しがアスファルトから照り返してただでさえ暑いのに、視界に映る男の季節外れの服装も日差しを吸収しそうなその色も、着ていないはずの自分にその熱が移りそうな気さえする。

 通り過ぎ、すれ違う通行人が時折シンの方を見るのは明らかにでかいその身長のせいもあるが、絶対に着ている服のせいだろう。

 

 人混みを抜け、海のそばに伸びる歩道へ出たところでようやく振り返ったその男に声をかける。最初から気付いていたのだろうが、静かな場所で話すのを好んでいるのか大抵話し始めるのは人混みを抜けた後だった。

 

「なんて格好してんだよ」

「何かおかしかったか?」

 全く自覚していなさそうなその顔に若干の呆れと愉快さが湧く。こういう何でもない時にふと目の前の男が人ではないことを実感する。ある程度のことをそつなくこなす癖に時折天然じみた行動をとり、『人間』をよく観察していたという割に感覚が鈍いのか『季節感』を丸無視した服を選ぶ。感覚が人間のそれより鈍くなくても、自分の霊力で編むことで出来上がるその服は見た目ほど暑くも通気性が悪くもないのだろうが。

 

「真夏に長袖のジャケット着るやつがいるかよ。見てるだけで暑い」

「…ああそうか、今は夏だったな」

 

 今気づいたとでもいうような雰囲気のシンの反応が予想通りで小さく鼻を鳴らして笑った。

 

「次はせめて長袖一枚とかにしろよ。ハイネックじゃないやつ」

「そうしよう」

「視える状態で街に出てんの久しぶりだな? 何か買いに行ってたのか?」

「ああ。久しぶりに本を読みたくなってな」

「へえ。相変わらず好きだなあんた」

 

 何度か共に本屋や図書館に行ったこともあるが、本に囲まれて立っているシンは傍目にはただの人間のようだった。最も、使い方もろくに知らない図書館に行って二人で館内を歩きまわり、自分の名義で本を借りようと利用法を見たのはそれほど昔のことではない。行ったことはないと言っていたはずだが、一度か二度使ったことがある程度の自分よりよほど慣れたように動いていた。曰く、烏が入れるところは大体のことをを知っているらしいが。図書館にはどう考えても入れないので昔にでも行っていたのではないかと勝手に思っている。

 

「なあ、この後暇か?」

「特に予定はない」

「じゃあちょっと付き合えよ。酒買って祠で呑もうぜ」

「店でなくていいのか?」

「祠のが落ち着くだろ」

 

 言葉を交わしながら海沿いをそのまま歩いて行く。特に考えなくても合う歩調は、昔からの癖なのか長らく共にいる間に合うようになったのかは分からない。

 隣を歩くシンは変わらず暑苦しそうな服のままで、その奥に広がる海が絶妙に似合わない。自分の頬を汗が伝って落ちていく一方で、汗一つ流れていないその涼し気な顔に人ではないのだと改めて感じる。意識してみれば多々見えるその事実と、そんなシンに人の行動を多少なり教えたことに少しばかりの優越感と独占欲を覚えた。

 何を買おうかと考えつつ、シンの隣に並んで歩いていると潮風が吹き抜ける。いつもは木と土と風、山の匂いに包まれているシンから潮の香りがするのがまた妙に似合わなくて小さく笑みがこぼれた。

 

 

***

 今は昔、人のいない山に真っ黒の鴉と夜叉が棲んでいました。

 光の差し込まないその山はいつも暗く、人間たちはあまり近寄りません。

 

 けれど、その鴉と鬼はときどき道まで下りてきては人間たちを助けてくれました。

 それゆえ人間たちは畏怖と尊敬の念を持って、その山へと今日も祈るのでした。

 

———それが、的外れだということも知らずに。

 

***

 

山に棲まう

 

 日が落ち、都から徐々に人の姿が消えていく。牛車がせわしなくそれぞれの邸へと走っていた。都の外れに位置する崩れた邸の跡地では、行くあてのない者たちが人の住まないその廃墟へと身を潜ませるように闇夜の訪れを感じ取っていた。山々が夕焼けに染まっていく。

 黄昏時から夜へと、人の刻から人ではないものたちの刻へと変わっていく。

 

 月と星だけが眩く瞬く中、木々から烏の飛び立つその翼と揺れる木の葉の音が静寂に響いている。

———その音は、閉め切られた邸の中の人々へ畏怖の念を抱かせるには十分だった。

 烏は通常、闇夜を飛ばない。鳥たちの眼は闇の中では廃墟に転がる死体よりはるかに役に立たないものへと成り下がる。それはつまり、この『烏』の翼の音がすなわちただの『烏』ではないということを示していた。

 烏が飛び去ったその一本の大きな樹の上には、一部の者たちにのみ視認できる影が二つ並び立っている。人型が問題なく立てるだけの太さしかない枝に八咫烏と夜叉が佇んでいた。

 八咫烏であるシンはその枝に、どこかへ寄りかかるでもなく纏った狩衣の袖の下で腕を組んで立っている。その前に座り、枝から左脚を投げ出し、自身の右足を折って膝に頬杖をついているのは夜叉である黒曜だった。

 その二匹の妖の視線は明かりの落ちた都へと向けられている。邸の中、御簾の奥に置かれた燈台のわずかな明かりが、闇に包まれた山からでも妖のその目にはしかと映った。

 

「お、いたぜ。あれだろ? 蛟の祠を壊したくせに逃げ回りながら女のとこに通ってるってやつ」

「そのようだな。呪詛に塗れた身体で随分と動き回っている。あれでは、通っている邸の人間の命も危ういだろうな」

 

 闇に包まれた都の通りを、共もつけず灯りを持って歩く一人の男。それを指さしながら話す内容は完全に他人事だった。盆地に築かれた都は、周囲を囲うように立つ山からは良く見える。——手に持った灯りがなくとも、二匹の眼には男に纏わりつく呪詛がはっきりと見えた。男のやつれたその顔も。

 

「時期に動けなくなるだろう」

「まあ、だろうな。勝手に他人の家に入ったんだ。当然だろ」

「ふっ、『人』の家ではないのだから余計にな」

「そりゃそうだ。人間じゃねえな」

 

 くつくつと小さく声を立てて笑う二人の瞳が月の光に反射して木の葉の影でも輝くように瞬いていた。顔を寄せ合って話すその背後で再び、烏の羽ばたく音とカアカアと鳴く声が響いた。頭上には、既に月が顔を出していた。

 

供え

 

「シン、また供えられてんぞ」

「またか…。あの祠は俺たちの物ではないのだがな」

「あんたが何だかんだ言いつつ助けてやってるからだろ」

「…お前も適当なところで他所の妖どもを追い払っているだろう」

「あ? そりゃ縄張りに他所のやつがいたら追い払うだろ?」

「それが、結果的に『助けている』とみなされているのだ」

 

 山の麓近くに存在する祠の奥、樹々で隠されるように伸びる獣道の先に湖があった。その畔に座っていたシンのもとへ、祠を抜けてやってきた黒曜が声をかける。通り過ぎる際に目に入ったらしいそれは、近くに住む人間たちが定期的に——豊作の時や祭りの時、果ては不作であっても——供えていく酒だった。黒曜が手に掴んでいる瓶子は土本来の色のままで、それだけで麓近くに暮らす『人間の暮らし』が垣間見えるようだった。

 ここに存在する祠は、本来この山に棲んでいた山神を祀るものであった。しかし、二匹がこの山に来た時にはその力の残滓すら残っておらず、空の祠だけが朽ちかけてただそこにあった。だが、麓の人間たちにはその辺りの事情が分かろうはずもない。時折やってくる妖が人間たちに害をなそうとしているところへ『たまたま』遭遇した二匹が助けているのを——実際のところ、黒曜はただ縄張りに来た余所者を追い払っているだけではあるが——、感謝してせめてもと供えているのだ。

 

「まあ、くれるってんなら貰うけどな」

「律義なことだ」

「あんたがそれを言うのかよ」

 

 シンの隣に座った黒曜が小さく笑いながら言葉を返す。それを横目に、シンは手のひらを上に向けて、そこに風をより合わせる。風が吹き抜けていった後、その手には小さな杯が二つ転がっていた。

 それを一つ摘まみ上げるように受け取った黒曜は手酌で酒を注いでいく。そうしてその間に指で持ち直したシンの杯にもそのまま注いでやると、二度三度と瓶子を揺らす。揺らされたその器からはまだ水音がし、幾らか入っているということが知れた。

 

「久しぶりに多いんじゃねえか?」

「今年は雨もよく降っていたからな」

 

 互いの間に瓶子を置くと、視線は湖に向けたまま小さく杯を合わせて呑み始める。八咫烏であるシンには酒も、人間の思いのこもったものも、ある程度霊力として変換される。だが、夜叉である黒曜ははるか昔のことではあるが、元々人間である。ただの嗜好品である酒としての効果しかない。それでも機嫌よさそうに杯を傾ける黒曜の姿に、シンは同じく杯を傾けながらその手で口元を隠すようにして小さく笑みを浮かべた。

 湖の先で、烏が一羽旋回しながら悠々と飛んでいた。

 

回復

 

 鋭利な爪が肉を断つ音がした。それと同時に黒い何かが宙を舞って飛んで行った。黒曜が視線を向けるとそこには、自身の腕がちょうど肘の辺りで切られて転がっている。

 一瞬ののち、痛覚が駆け巡る。人間のそれよりは遥かに鈍いものの、その痛みと飛んで行った腕のせいで不便になることに黒曜は思わず大きく舌打ちした。正面方向にやや距離をとって逃げた敵を睨みつけるように見つめる。

 ぼたぼたと流れている血が地面に落ちる音と噎せ返るように広がった血の匂いにまた苛立りが募る。

 

「シン!」

 

 睨めつけたまま一声シンを呼ぶと、上空から攻撃していたその八咫烏が羽を飛ばして蠢く妖共を一掃し、隣へと降り立った。少し慌てたようなその顔を視界に捉えつつ衿を雑に掴んで剥ぐかのようにその白い首をさらけさせる。

 

「血、貰うぜ」

 

 返事は待たない。そのままがぱり、と大きく口を開いてその首に牙を立てた。瞬間、口内には血の匂いとその鉄の味が充満する。その奥に、シンの力を感じて音を立てて血を食らった。時間にして数秒の後、牙を離してその跡に舌を這わせた。血が垂れることがないように舐めとり、残っていた腕の親指で口元を雑に拭い、それをも舐めとった。

 喉を鳴らすと、シンの血が——その力が体内へと染み渡るのを感じ、口角が上がる。あくどい顔をしているのが自分でも分かった。

 利き腕へとその力が流れていく。それによって、切断されたその面から肉が盛り上がり、元の形へと腕が再生していった。隣で突然血を吸われたシンがやや不満げな雰囲気を出しているのが少し愉快だった。

 瞬く間に再生した腕に力を込め、手のひら、指へと順に力を込めていく。そのまま爪を立てる形で丸めた手のひらに炎が浮かんだ。その炎の揺らめきが、自分と隣に立つシンに反射して足元の影が揺れている。

 シンの羽によって牽制され、無様にも動くことも逃げることもできずにいた目の前の妖との距離を一歩踏み込んで、瞬きをする間もなく埋める。一つ舌なめずりをしたのは無意識だった。

 移動する勢いのまま手の炎を叩き込む。殴り飛ばされる形でそのまま吹っ飛んだ妖が轟々と火に包まれて燃えている。

 

 燃えた残滓が二匹の周囲にちらちらと漂って、陽炎のように消えていった。

 

あとがき

 

 お手に取っていただきありがとうございます。

 

 色々なところで妖関連の知識を得ていたので幾らか齟齬があるかもしれませんが、妖自体が伝承で存在しうる曖昧なものなので良いかなという持論を基に書いています。あしからず。神の眷属と人の子、妖二匹の描写が楽しかったので満足しました。

 黒曜の実名が判明していれば真名を軽率にシンさんに教えちゃう話とかも書きたかったんですが、情報なさ過ぎて断念しました。この話書くとなると、「黒曜」の名付け親がシンさんになってしまうので…。どこかで書ければとは思います。

 八咫烏シンさんと山賊黒曜なんかも面白そうですね。書くなら平安か鎌倉辺りが楽しそうです。

 

 読んだ方が楽しんで頂けたのなら幸いです。ありがとうございました。

 

2020.10.04. 午睡。

Twitter: @zzzz_m2

pixiv: 3777273

 

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書く前に出した設定もついでに

元々は1本の大樹を中心に人が集まりできた集落。
大樹の位置する山の麓に村ができ、次第に人が増えていった。大樹ができるだけの地脈と水脈もあり、人や獣が住むには十分すぎる立地。そのうちに大樹を祀って祠ができ、そこに棲んでいた地神が供えを対価に守護するようになる。
しかし、地震や大陸からの妖魔の侵入、山の上という立地のせいもあり人々の信仰が薄れ、地神が祠を捨てる。
そこから幾百年、八咫烏であるシンが側仕えの任(ほとんど伝令なので飛び回りつつ好きに動いていた)を解かれ、世に出てくる。水脈と血脈の良さ故に祠周辺を拠点にし、山賊の黒曜と出会う。見鬼の才を持っていたから見えるだけで、基本は見えないようにしていたシンは声をかけられて驚いた。その顔を見て笑った黒曜のことが印象強く、そのまま会話するようになる。
黒曜は山から山に移動していたが、「神隠し」を騙って子供を誘拐・売り払う達の悪い山賊集団とかち合い、潰しつつ勢力を拡大。
祠周辺に住んでいたものの、山狩りにあって戦死。同時に妖魔と戦闘を行っていたのでシンはその場におらず、それを発見したシンが霊力で助けるか悩んでいる間に、流れた血と妖魔の呪い、見鬼の才を持つ色々と適した身体のせいで夜叉化。本人は意識していないが、まだ死ねないという念も作用した。
そのまま2匹でそこに棲むようになると、シンの神の眷属としての霊力で市井には「神が戻った」と勘違いされるように。供物を食べつつ、適度に人と関わりながら生きていた。
幾十年経ち、どうあっても元が人間のために夜叉としての凶暴性・畏を肉体が抑え込めなくなってきたため、黒曜が自死。シンは自死では死ねないので見送るのみ。遺骸を燃やす火の中で1人立っていた。

そこから幾百年、黒曜が輪廻転生の環にのって再び人間として産まれる。
街は元々あった大樹は年月によって枯れ、嗣がれ、丘の上に残る樹と祠だけが残っている。

2022-09-08