夕暮れの赤

 境内に蝉の声が響き渡っている。うだるような暑さをはらんだ風が蓮巳の着た袈裟の隙間から入り込んで通り抜けていく。背後にある襖からエアコンで冷やされた空気がほんの少し流れ出てきているのを感じた。早朝から履いたままで熱のこもった足袋がその冷気でいくらか冷やされている。

 ESの仕事の合間、どうしても手が足りないからと実家に頼まれて訪れた境内で例年通りの忙しさの中、朝から駆けずり回っていた。毎年のように着ているせいで着慣れたはずの袈裟の色味の無さに違和感を覚えるのは、ここ数年で袈裟よりはるかに着る回数の増えた紅月の衣装のせいだろう。鬼龍のつくるそれに慣れてしまったせいで、袈裟を着けながらパーツの少なさに若干の物足りなさを感じるようになってしまった。——初めは紅月の衣装のパーツの多さに四苦八苦していたというのに。

 

 徐々に空が赤らんで、夕暮れ時へと変化していこうとしている時分になってようやく一段落着いたところで、墓石の見える位置に伸びる縁側へと人目を避けるように移動してきた。この時間では墓参りに来る人も少ない。

着ている袈裟からもさらさらと目元に落ちてくる髪からも今日一日で上げられた線香の香りが染みついている。この香りも夢ノ咲を卒業して寮に入ってからは多少縁遠いものになってしまった。小さく深呼吸をして肺に届くその香りに安心感を覚えながら少しばかり重くなってきた瞼を一回、二回と瞬きをする。そのまま柱に凭れて、下に滑り落ちるようにするすると頬に触れさせたまま座り込んだ。足元は意識するまでもなく正座の形をとっている。

そのまま視線を向けた先にある墓地が夕暮れ色に染まっていく。強い日没の光を反射して光る墓石の瞬きが、耳元で鳴り響く血の脈動に似たテンポで、死した者の眠る場所でそう見えるのは些か皮肉にも感じる。境内でそれを口に出すのはさすがに憚られて、目を細めて見つめるだけだった。

あの頃も、そうだった。瞳に刺さるような強い光がかつての記憶を呼び覚ます。罰当たりにもあの墓石に腰掛けたまま、いつだってこちらを見下ろすような位置に座る朔間と話していた。ひねくれた子供だった俺の話に耳を傾ける朔間はいつだって楽しそうだった。いろいろな話をした。くだらない話も、その日読んだ本や見た番組の話も。周囲の人間のように、神様のように崇める姿に畏怖を感じて同じようにはなりたくはないという反抗心もあったのかもしれない。それもあのライブハウスで、道は違えてしまったのだが。

 

ぼんやりと見つめていた視界が夕暮れを過ぎて徐々に赤く染まっていく。ふと視線を落として自分の手を見れば、それもまた、赤く染まっている。

 

———「せいぜい花火みてぇに派手に生きて死んで、一緒に地獄の釜で茹でられようぜ。そのとき熱湯で洗い流すからよ…今は、とことん血にまみれてやるよ。」

 

脳裏に、あの夏に聞いた言葉が過る。強い意志を持ってそう言葉にした鬼龍の表情まで全て鮮明に覚えている。地獄とは、こんな色をしているのだろうか。およそ寺の息子とは思えない自分の思考に小さく笑みが浮かぶ。何かを握りしめるように力を込めた握りこぶしは差し込む光で血に染まっているようにも見える。——この手はきっと血に染まっている。そしてあの鬼は物好きにも共に地獄へ落ちてくれると言うのだ。鬼を共に地獄へ赴くとは。共に行けばきっとどこであっても幾らか息がしやすいのだろう。もっとももう一人、止めても刀を携えてついてきそうな奴もいるが。

 

誰もいないはずの方から声がして視線を上げると、見慣れた赤い髪の男がそこにいた。墓石を前に妹と並んで会話をしている。直接会ったことはない少女に親近感を覚えるのは事あるごとに嬉しそうに写真を見せてくる鬼龍のせいだ。遠目ではっきりと顔は見えないがどことなく雰囲気が似ている。そのまま手を合わせる動きがまるきり同じで、本当によく似ている。

ぼんやりと思い出すのは少し見上げて見ていた墓石に腰掛ける朔間の姿だ。大きな体躯を屈めて手を合わせるその姿とは似ても似つかない。そういえば一度鬼龍に「朔間の代用品」じゃないのかと言われたこともあった。「力」という点においては重ねていたのかもしれない。だが、今はっきりと言えるのは鬼龍は友であり相棒であり、共犯者だ。自分の抱えた感情をなんと名付ければいいのか、いまだにはっきりとしないが。これを愛と呼んでもいいのかもしれない。

あまり見つめるのも悪いと思いつつ、どうしてもその赤に目が惹かれてしまう。夕暮れの中にあってもなお目につくのは贔屓目も入ってはいるだろうが。

 

「旦那…?」

 

 瞳を開けて立ち上がった鬼龍と目があった。はっきりと話す内容が聞こえる距離ではないが、小さく動く口の動きで何となく何を言ったのかが分かる。それもなんだか可笑しくて小さく笑った。何かを一言二言妹と話したらしき鬼龍が、妹の頭を撫でる。と、そのままこちらへと足を向ける。

 夕日を背に少しずつ近づいてくるその姿が、地獄からやってくる鬼のようでまた面白い。逆光になってその表情はうかがえないが、少し笑っているような雰囲気を感じた。

 額から顎へと汗が垂れていく。それを袖でぬぐったが、どうにも暑いままで次から次へと流れ出てくる気がした。視線は鬼龍に向けたまま、その足で埋められた距離によって見えた表情はやはり、少し笑みを含んでいた。

2022-09-08