揺蕩う

 とっぷりと日の暮れた海沿いを一両の電車が走ってゆく。街灯の少ないそこは車両内の電気だけがぼんやりと外を照らしながら線を辿るように進んでいる。

 日の暮れた郊外のその電車にはたった1人しか乗っていなかった。まして、12月24日の夜、都心へと向かうその電車に乗る人間などいない。そのおかげか低級の呪霊の影すら見えなかった。

 月明かりで波間がゆらゆらと照らされた海が遠く、その窓越しに映っている。その窓を背に座席に身体を預けた傑がだらりと膝に肘をついて手を組み、前屈みに自分の足元へと視線を落としていた。特に何を見るともなしに視界に映るものを気にした様子もなく、一つ二つと瞬きをする。俯くように座るその姿は身に纏った黒い制服のせいもあって弱い明かりの下で黒々とした点のようにも見えた。––––あるいは傑の手の中で球体と化す呪霊のようでもあった。

 静かに深く息を吸う。走り続ける車両の振動が座席から身体に伝わり、組んだ手のひらから体内を走る血の脈動とがゆっくりと重なっていくような気がした。

 ゆらゆらと揺れ続ける車両の中でそのまま瞳を閉じる。視界が黒く染まり、身体へと伝わる振動で傑は自分が今どこにいるのか分からなくなる。身体が振動し、揺られ、浮き、揺蕩う。

 羊水の中で揺蕩う赤子はこういう感覚なのだろうか。そう考えたところで思考が徐々に仄暗い方へと傾き始める。瞬間、一際大きな爆発音にも似た音が鳴り、思わず身構えて瞳を開く。一般に過ごす高校生はおよそ知りえないその音に例えるほど慣れてしまっている事実に気づいて口角が小さく上がった。

 扉の隙間から流れてきた突風と身構えたことで映った視界とで反対方向へ向かう車両とすれ違ったのだと分かった。嫌でも鍛えられた動体視力が車両の中で座席にどっかりと座って眠りこける男を捉える。次の瞬間には通り過ぎ去っていった車両の走る音だけがわずかに響いた。

 しかし、傑の思考はその音にではなく、視界に捉えたスーツの男へと移っていく。とっくに見えなくなっているその姿が妙に瞳に焼き付いている。

 少し前に任務後に歩いていた夜の渋谷、その道端で蹲って吐く男が脳裏に蘇った。遠くから見ていたはずなのに鮮明に感じた鼻につくあの独特の臭いを思い出して胃から何かが迫り上がってくる気がして咄嗟に口を押さえる。

 先程の任務で呑み下した呪霊のせいで既に胃の中身を吐き出した胃からは何も出ることはない。口からは胃液すら出ず、吐き気だけが胸に残った。

 そのまま長く、息を吐き出す。暖房で温められているはずの車両の中で口に当てたままの傑の手は冷え切って、血の気の引いた青白いその手が小さく震えていた。

 

 カーブに差し掛かったのか傾いていく車体とともに滑車が悲鳴を上げ、寒々しい空へ響いている。その残響が耳元で鳴り続けていた。

 

「はは、」

 

 その甲高い音が猫の鳴き声みたいだと思って抑えた手のひらの隙間から笑い声が漏れる。似てもいないはずなのに何故そんなことを思うのか、それを疑問にすら思わず傑は再び瞼を下ろした。

 なんとなく。任務帰りの気分転換くらいにはなるかともう名前すら思い出せない補助監督の車を断って乗り込んだ電車で1人、傑は再び肺から息を吐き出した。

 

 海沿いからトンネルへと電車は進んでいく。轟々と吹き抜ける風音をよそに、傑の耳が拾ったのはどこかから聞こえた猫の鳴き声だった。

 視界が黒から白へと染まる。反転し、落ちる。どこにいるのだか再び分からなくなって、上下も前後もぐるぐると巡っていく錯覚にさえ陥る。それでも傑は瞳を閉じたままで、指先で触れたピアスの冷たさだけが妙にはっきりと感じた。