然る者

 掌に感じる鉄は冷たく、こんな小さな物で簡単に殺せるのかと他人事のように思った。

 

 寒々とした空きビルの上層、外の夜景から差し込むネオンの明かりだけが室内を照らしている。東卍所有のこのビルは何時であっても空いたままだ。周囲には息のかかった企業が有するテナントビルや倉庫しかなく、名目上オフィスとなっているだけのこのビルも周囲も実際のところ足を踏み入れるのは「こちら側」の人間だけだった。それも基本は処理するためだけに。

 

 ヒビの入った窓ガラスには銃痕らしき穴や飛び散って放置されたらしい血痕が残っている。暗がりの中でそれを視界に入れつつ一歩、また一歩と重い足を進めた。身につけた質の良いスーツも足元を包む革靴も、こんな目的で着用するのだから気分も上がりはしない。ガタガタと激しい物音が鳴り響くフロアへ足を踏み入れると、カーペットも敷かれていない床材剥き出しの空間の中央、ポツリと置かれたパイプ椅子に散々嬲られたらしいズタボロの男が縛り付けられている。ガムテープで両手足を縛り付けられ、その口も目も同じようにおよそ剥がすつもりのないテープが何重にも貼り付けられていた。口元は変形していて、とうに顎の骨も折れているのだろう。辛うじて何も貼られていない鼻から漏れる呼吸音だけが生きていることを示している。そいつを運び込み、今しがた縛り付けた部下の男たちはコピーペーストでもしたように同じ型の黒いスーツに身を包んでいて、それを見てさらに気分が下がった。

 足を止めて視線をやれば、その音に反応して一斉に礼をとる部下へ退室の指示を出す。その中の1人に見覚えのない顔を見つけて、九井か半間か、はたまた稀崎のところの人間かとその背を見ながら思考を巡らせる。他の幹部が介入してくるのもまあ、この状況では仕方ない。

 階段を降りる足音が止むと、周囲には椅子の男ともう1人、背後に静かに立つ人間の気配しか残らない。ジリジリと向けられる視線が背中を焼くように抑えきれない感情を孕んでいるのを感じた。

 ここまで一言も喋ることなく足音だけを鳴らして着いてきたそいつに振り向くと、ただ静かにそこに立っていた。口から出そうな言葉を呑み込むように、眉間に皺を寄せたままこちらを見るその頭には龍が変わらず住んでいる。

 抑え込むように口を閉じたままのドラケンの表情は久々に見るような気がする。意識していないのだろうが、自然と後ろ手に組まれた腕がかつての名残を匂わせていた。

 

「ひっでぇ顔」

「……、うるせぇ」

 

 思わず口に出してしまうほど酷い顔をしたドラケンを笑うが、その理由はとっくに知っている。何を思ってここにいるのかも。

 何も持たぬまま空いた左手をちらりと視界に入れる。いくつか嵌めた指輪がネオンの光を反射してきらりと光った。

 

 最高幹部である三ツ谷隆の手はここに至るまで綺麗なままだった。血を知らぬまま、かつて数々の東卍メンバーの身を包み鼓舞してきた特攻服を作り、妹2人を育て慈しんだその手は拳ダコこそあれ汚れぬままここにあった。

 

 巨大犯罪組織となった東京卍會の中にあって、一度もこの手が血に濡れなかったのは目の前で酷い顔浮かべたこの男の「せい」だった。

 幹部である自分に回ってくるのは掛け合いや貸元、手打ち等の交渉ごとばかりで時たま来るのもせいぜいが拷問の監視程度。そういう役回りに置かれたのかと思っていたが、それにしたって表面化する偏りが目について問いただせばこちらに流れそうになったバラシの仕事をドラケンが片っ端から請け負っていたと知れて、堪らず殴り込んだのはつい先日のことだ。–––––––それを漏らしてくれた九井とて、資金作りをメインにしているがその手は綺麗なままでは到底ない。間接的にも、直接的にも。

 

***

 

「ふざけんなよ、なんのつもりだ!オレだけ、守られるつもりで入ったんじゃねえ!」

「、分かってたさ。オマエがそう言うだろってことは。それでも、イヤだったんだよ!」

「オレらが『東卍』でなんだったのか忘れたとは言わせねえぞ。寄りかかるだけなんてお断りだ。舐めてんのか」

「……、ほんと腹立つくらいかっこいいヤツだな、三ツ谷、オマエはさぁ」

「オウ。礼は言わねえぞ、オレが背負う分まで勝手に持ってくな」

「あぁ、オレが勝手にやっただけだ」

 

***

 

 思い出した会話から首を傾けて思考を戻す。

 視線を上げて再び酷い顔をしたドラケンの眼を覗き込む。

 

「見てろよ、そのために来たんだろ」

「ああ、だから何も言ってねぇだろ」

「顔に全部出てるけどな」

 

 小さく笑って言葉を交わし、再び身体を前に向ける。捻る動きに合わせて背中に捩じ込むように差していた銃を掴んでだらりと下へ腕を下ろした。そのまま数歩分、足を進めて椅子の正面に立つ。握り込むように銃を掴んだ手を胸元まで持ち上げ、指先で撫でるように触れると外気に伴って冷えていた銃が仄かに体温を拾ってか体に触れていた一部だけ温かい。こんな小さな物で、とは思うがあのハロウィン、あの地で死んだ場地も小さなナイフでその命を落とした。

 片足に寄せていた重心を中央に乗せると足元で磨かれたまま光る革靴がコンクリの上に転がっている砂と擦れて音を立てる。胸元で掴んだままの銃を再び握り直すと、意識しなくとも手が汗で湿っているのを感じた。安全装置に親指をかけ、外す。それだけの音が妙に室内に反響した。

 そのまま引き金に指をかけ、椅子に座らされた男へと標準を合わせる。気絶しているのかやや上を向かされたままピクリとも動かないその眉間を狙って構えた。

 そうしてそのまま、引く。

 

 殺した。

 

 たった1人、その1人で確実に今まで越えなかった向こう側へと足を踏み入れた事実をどこか他人事のように見る。知らず詰めていた息が口から漏れ、耳が反響する銃声を拾った。サイレンサーもついていない銃の音は人気のない空間によく響き、おそらく外にも漏れている。

 撃った反動で身体は揺れこそしたが、思っていたほどの衝撃はなかった。黒い特攻服を着ていた頃より動けなくなっているはずだがあの頃より体格はよくなっているのだろう。何もかも、突っ立った自分を俯瞰して見ているかのように、他人事のように捉えている。

 握り込んだ手の中で銃が熱を持っている気がしたが、冷えた指先ではいまいちその温度もよく分からない。

 その手に、後ろから別の手が覆うように伸びてきた。銃を握ったままの手を自分のそれよりやや大きな手が掴み、緩やかにその熱を移されていく。ぼんやりと見ていると安全装置をかけ、けれど銃を奪いもせずそのまま手に触れたまま静止した。

 どれほどそうしていたか、数秒か数分かどこか遠い時間の感覚が戻り、後ろに立ったままのドラケンへ背を預ける。それを合図にか、触れていた手が離れた。

 右肩にぼん、と乗せられた重量を感じた。視線をやらずとも頭を乗せられたのが分かってそのままそちらへ首を傾けた。互いに熱を分け、重みを分ける。ドラケンがよくするこの触れ合いはいつからだったか–––––––神社の階段で裁縫をしている後ろに勝手に座ってきた時か、はたまたキッチンで何かを作っていた時か–––––––、気付けば馴染みのあるものになっていた。

 

「今更だけど、こんなもんでって思っちまった」

「おー。…呆気ねぇよな」

「そうだな…、ドラケンさぁ、本当はオレのことも置いて行こうとしてたんだろうけど」

「なんだよ、誰かに言われたか」

「聞かなくても分かる。結局オマエもオレも、マイキーを、東卍のヤツらを置いていけないだろ」

「そうだな…、これでオレらどっちも地獄行きか」

「…エマちゃん待ってるだろ、お前は。連れてってもらえよ」

「そんな都合いいことできるか。だいたい、今更オマエ置いてけってのか」

「置いてけよ、バカだな」

 

 ぽつりぽつりと2人の交わす言葉が室内に落ちていく。遠く街を照らすネオンの光が微かにその横顔を照らしながら、その輪郭を縁取っている。その足元には死体から流れた血が少しずつ広がり、鉄の匂いが薄く漂っていた。

 他に生きた者のいない空間の中、2匹の龍が熱を分け合いながら寄り添っていた。

 

 ××年××月××日××時××分、龍宮寺堅 死刑執行。

 

 届いた簡素な知らせに瞬きを一つ。大きく吸った息をそのまま口から漏らすように細く吐き出した。

 それを知らせた電話から手を離し、雑に何処かへと放る。がちゃん、と音を立てて落ちたそれは画面が割れたかもなと思ったが今はどうでもよかった。

 片手をついたままの洗面台の縁、電話を放ったその手をついて俯くように覗き込む。捻ったままの蛇口から水が流れ、円を描いて排水口へと吸い込まれ続けていた。

 視線を上げると鏡に映る自分の顔は思っていたより普通だった。反転した自分の顔に見慣れない点が一点だけ。

 鏡の中、頭の左側は剃り上げた頭皮と見慣れた模様の見慣れない龍がそこにいた。

 今日、彫り師に頼んで入れたそれを今度は貰っていく。右側は、未だ髪に覆われたまま、その下の龍は顔を覗かせていない。

 静かに左に新しく飼った龍を指で撫でる。自分の体温だけが指先に伝わって、無性に恋しくなった気持ちを誤魔化すように手のひらを龍に当てた。くしゃり、と髪ごと掴むように手を握り込んで、けれど鏡から視線は逸らさなかった。

 

「エマちゃんに連れてってもらえよ。お前の分はオレが貰って地獄まで連れて行ってやるからさ。それまで、アイツら見送るまでは、まだその荷物持っていけないけど」

 

 告げた言葉がドラケンと共に過ごした部屋に落ちて、消えていった。応えは、なかった。

2022-09-09