Misty Nail

 人気のない墓地の中、ずらりと並ぶ墓に紛れて一人、男が立っていた。綺麗に磨かれた一つの墓石の前で光を反射してきらきらと長い銀髪が鈍く輝いている。嫌に晴れた八月の空の下で墓石に向かって立つ男の表情は垂れた前髪で窺えず、ポケットに突っ込まれた片手に通す形でぶら下がったビニール袋が風に揺られて音を立てていた。

 果たしてどれほどの間そこに立っているのか、袋の中で冷えていた缶ビールがじっとりと汗をかいて、袋越しにその水分が垂れていく。一滴、また一滴とその雫が熱された石畳の地面に落ちて跡を残す。その跡もすぐに気化して始めから存在しなかったかのように消え去っていった。

 墓に供えるのなら冷えた缶を買う必要もなかったが、差し入れにと買い慣れたそれを手に取って棚に戻す気にもなれずそのまま購入した。盆も過ぎたこの気候ではきっとぬるくなってしまっている。そう思考は巡るものの、目の前で物言わぬ石に彫られた名前から視線は動かなかった。

 真一郎と単車を流した後だったか、軽い雑談の流れで佐野家の墓がこの墓地にあるというのを聞いてはいたがまさか自分が足を運ぶとは思っていなかった———ましてそれを語った本人を参ることになるなど。

 轟、とひとつ背後から風が吹いて首筋の熱を奪うように通り抜ける。空いていた右手で髪をくしゃりと掻くと、滅多に熱を持たない白く染めたそれが熱くなっていた。その事実に自分で思っていた以上の時間をぼんやりと立っていたらしいことに気づかされる。

 空を仰ぐと視界が青に染まる。視界の端で入道雲が緩やかに風に押されて流されていく。それを見ながら切り替えるように、知らず肺に詰まっていた息を吐き出した。

 

「ヨ、真ちゃん」

 

 再び視線を下ろし、墓石へと声をかける。定期的に人が訪れているのだろうそこは小綺麗で、掃除をする場所も見当たらない。供えられた花もまだ新しかった。

 がさりと音を立てながら袋から缶ビールを取り出し、屈んで墓前へ置く。重みを失った袋からもう一つ、見慣れた箱を取り出した。

 フィルムを剥いで袋に戻し、その袋ごとポケットに突っ込んだ。手に持った箱から一本煙草を取り出して、口に咥えて火をつける。それをそっと墓前へと供えた。そうしてそのままもう一本、再び咥えて火をつける。紫煙を口内で転がすように緩やかに吸い込み、口を覆うように翳した手で煙草を指で挟んで、薄く開いた口から細く吐き出した。真一郎が吸っていた銘柄はよく知った香りだが別に好みの味ではなかった。ただそれでも何となく落ち着くからと吸うようになって少し経つ。再び唇に戻した煙草の味は、すっかり口に馴染んでしまった。

 真一郎に出会う前、煌道連合の頭をはっていた頃にはもっとタールの重いものを吸っていたが、纏う衣を黒に替えて以降は吸わなくなって久しい。おかげでこの数週間、家の何処かに昔確かに仕舞ったはずのジッポを未だに見つけられずにいる。あの頃持っていたものに比べれば遥かにダサい百円ライターを指で弄びながら、ユラユラと身体を揺らした。葬式の後、部屋から出てきたのだろうそれを握りしめたエマの手から回収したのは幼い少女には似つかわしくないからという咄嗟に被った“大人として”の顔もあったが、真一郎への懐古がなかったとは言えない。遺品を整理したのだろう、貸したままだった雑誌を返された際、ついでという体でそれをダシにそのまま譲り受けた。佐野家で煙草を吸うのは真一郎しかいなかった。

 どこにでもある、どこででも買えるそれは安っぽい半透明で、店のカウンターに置き去りにしていたのを見た記憶がある。表面には小さな傷が幾つか、中のオイルは随分と減っていた。こいつは最期の瞬間そばにあったのか、そんな答えを知りたくもないくせにつらつらと考えては表面の傷をなぞるように指で追う。

 屈んだことで目線近く、供えた煙草が緩やかに燃えてその灰を増やすのがよく見えた。風が止んだこともあり、その煙は細く空に向かって立ち上がっている。咥えたままの煙草からも同じように煙が細く上がっているが、明るい青空の下では視認しにくくてどこまで昇っているのかは分からなかった。

 煙草を咥え、片手ではライターを手遊びのように弄んだまま、ぽつぽつと最近のことを話す。話すのは嫌いではないが、専ら真一郎といる時は聞く方が主だったから自分から話し続けるのはまだ違和感があった。万次郎とエマのこと、ジムのこと、黒龍の元メンバーのこと。簡潔な報告程度のそれに、当然返事はない。

 

「真ちゃんは、墓じゃなくて家の方にいそうだけど。バブの方にいるかもなってベンケイとも話してたんだよネ。・・・・・・、また来るワ」

 

 指で煙草を挟んで、唇から離し大きく息を吐き出した。そうしてポケットから取り出した携帯灰皿に強く押しつけるようにして火を消した。蓋を閉めると金属の触れ合う音が周囲に響く。

 帰ったら、ジッポを見つけなくては。中身の減ったこのライターを捨てる理由を作ってしまえ。きっとすぐに煙草を辞めることもできないのに、それならそれでいいかと開き直る。女々しいと冷静に考える自分を幾らか許容してやる、同じ煙草の香りがするくらいはいいだろう。真一郎に出会う前と比べれば落ち着いたと言われる性格の変化より香りの変化くらいは小さなものだ。

 あの黒い龍が変えたのだから。

 それでも真一郎のセンスだけは認められないから、ダサいライターだけは捨ててやる。最も本人はライターに興味がなかっただけだろうが。

 そう決めて、ポケットの中のライターをひとつ撫でて立ち上がった。

 じりじりと熱を増した日光が肌を灼くのを感じた。火のついたままの墓前の煙草を指で挟んで、そのまま咥える。供えた缶ビールをちらりと見て、置いていくか少し悩んでから掴んだ。上部をぐるりと囲う突起部分を指先に引っ掛けるように持って、そうして墓に背を向けた。振り返らず石畳の通路を通り抜ける。手が塞がるのは好きではないが、ゴミを放り込んだ袋に再び入れるのも憚られて揺らすように缶ビールを手にしたまま歩みを進めた。

 細くたなびいた煙が一本、空へ向かって立ち昇って、その半ばで輪郭を失って消えていった。周囲に残った煙草の香りだけが訪問者の痕を残している。程なくしてそれもまた、轟と吹いた風に連れ去られていった。

 

***

Kiss From Heaven

 

「ヨ、真ちゃん」

 

 零時もとうに回った暗い墓地の中、白い軍服のような特攻服を羽織った男が、またも一人立っていた。高い位置で結ばれた金と紫の髪がその白い背に広がるように垂れている。

 ポケットから取り出した煙草を咥え、同じく取り出したジッポで火をつけた。唇からそれを離して墓前に供えると、周囲には嗅ぎ慣れた煙草の匂いが広がっていった。

 佐野家と彫られた墓石の前に屈んで、ぽつりぽつりと吐き出すようにその唇から零れる言葉が闇夜に消えていく。

 

「見ろよコレ、また白い特攻服着ることになったワ。懐かしくねぇ?」

 

 肩に羽織ったそれを少し摘んで見せるように語りかける。着ていた期間は短いはずだが、初代黒龍のそれと異なる色、煌道を思い出す色に少しばかりの違和感を感じた。梵の特攻服もまた黒く、この数年で手元の特攻服が増えたなと思いつつ話し続ける。

 ゆるりと立ち上がる紫煙が真っ直ぐ上へ上へとのびて消えてゆく。

 

「今度は万次郎の下にいる。ガキの頃から見てたヤツだし変な感じすんね」

 

 徐々に煙草の火が燃え進み、白い灰へと姿を変えていった。時折吹く風に反応して、その燃え口がちろちろと揺れる。

 

「真ちゃんと似てっけどサ、やっぱちげぇなって思うよ。どうなるかわかんねえけど、今日でケリつくだろうから」

 

 訥々と話題を変えながら物言わぬ墓へと投げかけられる言葉たちが宙へと消えていく時間が幾許か経ち、いよいよ煙草は燃え尽きて全て灰になった。そこへ轟、と吹いた風が何処ぞへと運んでいく。

 突風に思わず閉じた瞼を開ければ、僅かばかり残った灰だけがあった。指先で払うように触れるとほんの少し、体温に似た温度が残っていた。

 若狭はそのことに小さく笑みを浮かべるとゆらりと立ち上がり、墓石の文字を見つめる。

 

「じゃーね、真ちゃん。また」

 

 いつものように、変わらぬ声をかけて背を向けた。人気のない墓地に小さな足音とそれに合わせて時折なるピアスの金属音が響いて、消えていく。

 迷いなく進む足音は徐々に遠ざかって、やがて墓地には風で揺られる木の葉の音だけが響く。

 月明かりの下で、一つの墓に腰掛けるつなぎを着た男の影が一瞬現れたのを見るものは誰も、いなかった。

2022-09-09