1
烏は空を翔け、狼は陸を駆ける。
狼の牙の向かうところを烏は知らず、烏の爪の向かうところもまた狼は知らず。
されど刈り取る命は1つ。
2
鼻を抜けていく潮風の匂いが喉を通り、飲んだわけでもない塩辛い海水の味が口に広がる気がした。それを誤魔化すように咥えた煙草に火をつける。
視線を横に向ければ、相変わらず何を考えているのかわからないシンが海を見つめている。革靴で砂浜に立っている癖に気にも留めていないかのようなその視線の先を追いかけるように、星月に朧気に照らされた海へと目を向けた。
泡を立てて寄せては返す波は、夜闇のせいで黒く、昼間に見る時より遠く彼方まで続いているように見える。
薄く開いた口から一気に吐き出した煙で、少しばかり辺りが色付く。暗闇に広がるぼんやりとした煙が、遥か高くに光る月に、翳った。
3
突然シンに連れてこられたのは博物館だった。自分1人ではとてもじゃないが行先に選ぶことはない。厳めしい建物のデザインに反して、扉そのものは簡素な自動ドアをくぐると少し照明を落とされたエントランスが広がっていた。
仕組みも良く分からないまま、先導するシンに従って展示エリアらしき空間に入る。果たして何時ぶりだろうかと考えても思い出せない程度には縁のない場所だった。
静けさに包まれる空間で、互いに言葉を交わすでもなく壁に掛けられた絵を順に見ていく。示し合わせたわけではなく、ただ進む速度が同じだっただけだ。
芸術分野に明るくない黒曜はどう見ればいいかも知らないし、シンが何も言わないのを見るに知っていてどうにかなるものでもないのだろう。ただ順に視界に入る絵を目で追いかけていく。解説は読んでも良く分からないので題名程度しか見ていない。誰が描いているのかは別に重要ではないだろう。今ここにあるのは、結果として描かれた絵一枚だけだ。
視界に映る絵の赤、黒、鈍色、白。自然と目を惹かれるものをただただ追いかける。
そうして、ひときわ大きな絵画の前に——壁に掛けられているとはいえその頭よりもおよそ高い位置に上辺のある額に入った絵画の前に——佇むシンを包むその色が、その奥の絵の一際目につく赤との対比を作り出す。ただそれを、好ましいと感じた。
4
くわえていた煙草を大きく吸って、薄っすらと明るんできた空に向かって吐き出す。立ち入り禁止の寂れたビルの屋上で手すりに寄りかかって体重をかけた。それに伴って、鈍い音を立てる鉄柵は錆びついて崩れないのが不思議なほどだった。
レッスンだの調整だのでいつもより遅くなり、帰るのも面倒でスターレスの入ったビルの階段でいつものように煙草を吸っていた。たまたま同じように遅くまで残っていたのであろうシンが帰途につこうとしているのが目に入って、非常階段から声をかけた。立った状態でシンのつむじが見えるのも妙な気分だった。振り返ったその男が非常階段を上がってきたのはきまぐれだったのかもしれない。足音を立てながら近づいてきたシンがそのまま続く非常階段を上っていくのを目で追いかけ、ちょうど吸い終わった煙草の火を消してその背を追いかけた。
何度もこの非常階段で煙草を吸っているが、上にまでつながっていたのかと物珍し気にしみじみと見てしまう。力を入れれば壊せそうなその扉を押して、雨風にさらされ、手入れもされていないのが目に見えてわかる屋上へと足を踏み入れた。
「屋上なんてあったのか。」
「ああ。これだけ朽ちていれば足を踏み入れる人間はそういないがな。」
ひびの走ったコンクリートの地面を踏みしめる音が静寂に包まれた月夜に広がる。ポケットからやや潰れた煙草の箱を取り出して、その口を叩く。そうやって飛び出してきた一本の煙草を引き出し、くわえて火をつける。
吐き出した煙の色が、先ほどよりもいくらか明るくなった空との対比で薄く見えた。前に立つシンの背後に
5
海に花束
合流した段階でその手にあった色とりどりの花束が、果たして何に、あるいは誰に向けられたものなのか黒曜は知らない。テトラポットが眼下に広がる堤防の上で海に向かって立つシンの横で黒曜は座って煙草を燻らせていた。
海と花束、それを見て思い出すのはいつだったかにシンの家で観た洋画のワンシーンだ。それは確か海で死んだ軍人への手向けとして同期の軍人が投げ込んだのだったか。
重心を前に寄せて、少し背を丸めるように座っている黒曜からはその前髪の隙間からしかシンの姿は見えない。ぼんやりと映画のシーンを思い出しながらシンをぼんやりと見る黒曜がくわえた煙草のフィルターがジジッと音を立て、目の前の海から吹き込んでくる潮風で灰が後ろへと飛んでいく。
「それ、投げ入れるのか。」
「…、海は如何なる場所へもつながるという言葉がある。だが、そうだな。
黒曜、火は持っているか?」
「あ?あるぜ。」
そういってポケットから取り出されたライターを受けとったシンは感情の読めない表情のまま、花弁に火をつけた。思わず目を剥く黒曜を気に留めることもなく、ある程度火が広がったところで公演以外では見かけないような大きな動きで花束を海の方へと投げた。その花束は海面につく前に燃え尽き、灰となって風に乗って消えた。
思わずぽかんとしていた黒曜の口元から吸いかけの煙草をシンの指が奪っていく。そのままそれを口に運び、一つ吸い込んで吐き出した煙もまた、どこかへと飛び去って行った。
6
葡萄は我が血である
青白くやや筋張った、けれど無骨なシンの手がその人差し指と親指とで赤黒い葡萄を1粒もぎとった。朱を指す、というほど健康的では無いその色が不健康そうな肌の色との対比を作り出していた。
運営が差し入れに届いたと言って皿に盛ってきた一房の葡萄は、実の重みで果梗がしなっている。おもむろに腕を伸ばしてその青白い指が1粒をもぎとったのを、黒曜は黙って見ていた。何を言うでもなく、ただその指に摘まれた実がもう幾ばくか赤ければと、訳もなく思いながらただ見ていた。
手遊びをするように手の上で転がされていた1粒の葡萄がシンの口元に運ばれる。それを見るや、黒曜はガタリと音を立てて椅子から立ち上がり葡萄を含んだ口に噛み付いた。
7
肌と血管
白いシーツの上で小さく身じろきする黒曜の手のひらが、それにしわを作っている。少しばかり寝心地が悪かったのか眉をしかめているが、その瞼は閉じたままだ。
前髪が下りていると一層幼く見えると思いながら、腕を持ち上げてその眉間に指を伸ばす。人差し指で撫でるように触れると、そこに寄っていたしわが幾らかほぐれていく。
その様に小さく笑うように息を漏れた。ふと、シーツの上に転がる黒曜の腕に視線が向く。そして持ち上げたままの自分の腕との色の違いに目が惹かれる。
青白い肌の下に流れる血はその皮膚越しにはやや青く見える。一方ですやすやと寝息を立てる黒曜の腕は健康的な肌の色をしている。その下に流れる血はおそらく赤々として温かいのだろう。考えながらその手首に手が伸びる。内側の動脈あたりに触れるとその下に流れる血の鼓動を感じた。
そこに触れる程度に唇をよせて、感じる黒曜の体温にどこか安心感を覚えた。
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01
グローブ越しに触れる熱があつい
どくり、どくりと指先から脈動が伝わる
自分よりも高い黒曜の体温が少しずつ移ってくる
グローブの下へ指を差し込んだ手から
黒曜の体温が侵食してくる
ぐ、と近づけた顔に当たる吐息もまた、あつかった
02
「どこか行きたいところはあるか?」
きっちりとコートを着込んでスマホで地図を確認しているらしいシンがこちらに目を向けるでもなく尋ねる。
「腹減ったな。」
「ふ、まずは食事にするか。」
慣れない入国手続きに、フライトで感じる少しの疲労感。隣で涼し気な顔をしたシンが入国手続きゲートで、真顔のスタッフと真顔で会話する様が少しばかり面白かったのは告げていない。
尻ポケットに突っ込んだままのパスポート1枚で、何処へでも行けるというのは変な気分だった。まっさらなページに今日押されたスタンプだけが残っている。
初めて訪れるこの場所は閉鎖空間である空港の中にいても、慣れない匂いがした。
キャリーに腰掛けたまま辺りを見渡すその姿は周囲を警戒する狼のそれに似ている。
それを視界に入れながら、シンは歩きだそうと顔を上げる。
「食事を終えたら射撃場にでも行くか?」
「そういやあるんだったか。アンタが持ったらシャレにならなさそうだな。」
軽口を叩きながら歩き出した2人の背は、どこにいても変わらなかった。
03
ごぽり、とせりあがってきた赤い血が青白い顔をしたシンの口の端から垂れていく。押し倒したままその瞳に突き立てた切っ先はそこから微塵も動きはしない。時折光を反射して瞬く瞳も、今は覆い被さる自分の影になって暗い色をたたえているように見える。
背中には雪が降ってきているらしい。視界に広がるのはこの男だけだ。辛うじてその刺すような冷たさで降っているのだろうと分かる。
「なあ、」
なんと言葉にしたものか、定まらないまま口を開いた。が、その頬に酷く気だるげに持ち上げたシンの左指が触れる。目元の血を撫でるように拭われて、その感情を言葉に乗せるのはやめた。
刀は突きつけたまま、シンの口の端から垂れ続ける血を舌で舐めとって、そのまま唇を重ねた。
互いの血が混ざり、鼻にはどうしたって血腥い鉄の香りが抜けていった。
04
ローテーブルからティーカップを取って紅茶に口をつけるシンの姿はいつもの私服に比べれば幾らかラフだった。
礼を言ってカップを受け取れば、紅茶の香りが鼻を抜ける。詳しくは知らないが、シンの家を訪れた時には必ず紅茶が出てくる。少しずつ香りが異なるので毎度違うものなのか、それとも淹れ方が違うだけなのかは分からない。
カップを覗き込むようにして視線が落ちる。その視界に裸足のまま、色の異なる互いの足が映った。
何となく足を伸ばしてそのまま指先で触れる。
「冷てえな。」
「そうか?いつもと変わらないだろう。」
「いつも冷てえよ。」
相も変わらぬ体温が心地よくて2度、3度と触れていく。触れ合わせるのは初めてではないが。
されるがままだったシンが、幾度目か突然足を引いた。そして小さく音を立ててソーサーにカップを置く。その動きでできた影が静かに近付いて顔にかかった。
05
照明の落ちた部屋で、映画を流すTVが時折強い光を放ってはソファに並ぶ2人の顔を照らした。
TVの下に置かれたスピーカー越しにけたたましい爆撃音、銃声、怒号、軍靴が土を踏み締める音が続く。シンが手にしたグラスを煽るのが視界の端に映り、すぐ隣からカラリ、と丸氷とグラスの触れる音がした。
手にしたビール缶は徐々に冷気を失い、てのひらからの熱でぬるくなり始めている。それを一気に飲み干せばアルコールとビールの苦味が鼻をぬけていく。小さく鼻を鳴らして空気を吸うとーー場所が場所なので当然だがーーいつもはシンからする匂いが嗅覚を擽る。それをよく知っているはずなのに、この部屋がシンの住処ということを如実に語っているそれに烏の巣を連想する。手元のビール缶を握り潰し、同時に視界に入った光る鏡に、せっせと光るものを集めるシンを想像して思わず吹き出した。
怪訝そうな顔でこちらを見るシンの顔を照らすTVは軍人が銃を片手に塹壕から飛び出したところだった。
06
降りしきる雨の音で騒音が遮断され、外から聞こえる雨音だけが響いている。スターレスからの帰り、何となく会話が続いた2人がふらりとこの東屋に辿り着いたのと、本降りになったのはほぼ同時のことだった。
急ぐわけでもなく雨宿りでもするかと提案してきたシンに付き合って、中にある石造りのベンチに腰掛けた。デニム越しに、雨で下がった気温の影響を受けて少しばかり石の冷えた温度を感じる。濡れた髪からぽたりぽたりと雫が落ちるのがうっとおしく、髪をかき上げて雑に拭った。
「紫陽花に込められた言葉を知っているか?」
「知ってるように見えるのかよ。」
「誰しも仮面をかぶることが可能だ。覆っている影と覆われた中身が同じとは限らない。…最も、お前がそうではないことはとうに知っているがな。」
向かい合ったベンチの斜め右側に座っているシンが突然、東屋の外に目を向けながら口を開いた。その視線を辿れば、そこには様々な色をした紫陽花が咲き乱れている。青に白、ピンク、それから薄い緑色。色とりどりに咲き乱れる中にポツポツと点在しているところを見ると、まだ色づいていないだけのようだ。
「青い紫陽花には『冷淡』という花言葉がある。」
「へえ、色からとってんのか?随分ざっくりしてんな。」
「だが、反面『家族団欒』の意味もある。皮肉が効いているだろう。」
「なんだそりゃ、家族は冷淡ってか?まあそんなもんだろ。ただ血が繋がってるからどうって話でもねえしな。」
「ふっ…、そうだな。」
相反する意味の言葉を持つようにも思えるが、かなり芯をついているような気がした。血の繋がりよりもどういう関係性かの方が重要だ。
返した言葉に満足げに悪人面で笑みを浮かべたシンを見ながら、その肩越しにわずかに見える白い紫陽花に目を向けた。
雨はしばらく、止みそうになかった。
07
手摺りに乗せたままの肘が時折触れ合う。足を組んだシンの動きに合わせて、椅子に張られた革の擦れる小さな音がした。その動きに合わせて僅かに椅子が揺れるのを黒曜は感じていた。
背中合わせでも向かい合わせでもない、珍妙な構造をした椅子では2人の肌が触れるところは少なく、互いが横を見なければ視線が絡まることもない。
それでも、一脚の椅子に座っていることでお互いの動きを、肌で、音で、そして匂いで感じ取っていた。幾らか身体を傾ければ——周囲からはそれと気付かれないほど僅かに、言葉を交わす前に視線が絡まる。
それを黒曜は喉の奥で、シンは息を吐くほどの小さな音で、笑みを浮かべるその表情は少しばかり似ていた。