その存在を高らかに示すようにショーウィンドウの最前、ガラス一枚を隔てたそこにバブを置いた。これまで自分が黒龍として乗ってきた間についた傷を一つ一つ確かめるように拭って磨き上げる。ハンドルから全てのパーツを順に確かめ、整備していく。これまでに散々行ってきたその行為はもう無意識でも手が覚えている。

 もう幾度も繰り返した中であの幼い一虎がここを通るのは分かっていた。なんなら今しがた似合わないパンチパーマの少年が通っていくのも見えた。

 ペンチを握る手が震えている。拭いきれない死への恐怖が真一郎を絶えず襲っていた。やりたいこともやってきたことも様々な光景が脳裏をよぎる。未来でワカと共に歩んだ景色も、暮らした記憶もある。それでも、弟が大切だった。幸せな時間を過ごした記憶が自分には既にあって、けれどその時間では大切な弟も妹も死を迎えていた。手からこぼれ落ちていくその感覚は今もまだ鮮明に思い出せる。生まれたあの日、母から受け取って抱き上げたあの日の温度を、この手がまだ覚えている。

 再度決心を固めるようにぐ、と握り込んだ手のひらでペンチと軍手が擦れる音が他に誰もいない店の中に落ちた。

 

***

 

「絶対に八月十二日の夜からは店に来ンな」

「…、またいつものヤツ?」

「ン、そう」

「分かった。一人だからって無理しないでネ」

「……。ありがとな」

 

 脳裏につい先日交わした会話が過ぎる。浮かぶように流れていく思考をよそに、耳に当てたままの携帯から伝えられる情報は溢れかえっていた。電話の奥の声が震えてるな、と他人事のように状況を俯瞰して見ている自分がいた。

 

 ———真ちゃんが、死んだ。

 ———八月の十三日にS・S MOTORで、強盗に入った少年に殴られて、死んだ。

 

 知らず力の入っていた手のひらが携帯電話を握りしめて、ミシリと苦しい音を立てていた。深夜に突然かかってきた電話に叩き起こされたのに妙に冴えた思考が今までの会話を一気に反芻していく。

 そういえば最後のあの会話の時、真ちゃんは返事をしなかったな。

 そう思いながら俯いたままだった顔をもたげて外へ視線を投げる。陽も昇っていない空は暗く、窓の外から街灯の灯りがぼんやりと差し込んでいた。

 まだ朝は遠い。

 握りしめたままの携帯の奥、応えを返した自分の声はいつもより遥かに感情が乗っていなかった。平たい声で話して、伝えられた病院へと向かうべく起き上がる。ベッドから下ろした足先が冷え切って熱を持ったままの床板の温度を拾った。

 ふらり、と揺れる視界をそのままに踏み込んでドアをくぐって外へ出る。

 ぬるい風が頬をなぞって街中に消えていく。若狭の手からこぼれ落ちていったものなど知らぬと言うかのように外の景色は何一つ変わらなかった。

 

***

 

「勝手に置いて逝くなよ、バカヤロウ」

 

 墓に向かってかけられる恨み言ともいえぬ文句を、その墓石に腰掛けて胡座をかいたままの半透明の真一郎が見下ろす。その口には煙草が咥えられていたが煙は上がっていない。

 灼けるようなその視線に若狭が気づくことはなく、燻らせた紫煙が晴れた空に立ち上ってその輪郭を徐々に失っていく。

 墓前で立ったままの若狭の手に握られた携帯の画面にはあの日、送られることのなかった若狭に宛てた真一郎の文面が表示されている。

 下書きに保存されたままだったメールをそのまま受け取って保存してあるそれは真一郎から

若狭への言葉がつらつらと取り留めもなく書いてあった。文面からしてあの日、確かに真一郎は死ぬつもりでその上で若狭に「来るな」と言ったのだと分かる。

 読み終えて若狭は腑が煮え繰り返るほどの怒りを覚えた。勝手に言うだけ言って独りで死にやがった。あるいは伝えるつもりもなかったのか。

 若狭の知る真一郎は目的のためならなんだってやるし痛みだって耐える。そんな男だったがそれでも痛いものは痛いと言うし、死を恐れないような男ではなかったのだ。だからこそ、独りで死なせてしまった。そのことに腹が立った。

 八月十二日の夜、未だ若狭は眠ることができない。かつてのあの一晩を思い出して眠れぬまま夜を明かすのももう幾度となく繰り返した。年に一度眠れぬまま夜を過ごし、翌日墓を訪れて何をするでもなくそこで過ごして泥のように眠る。

 今年もまたその繰り返しだ。遺していったものを遺された人間は享受することしかできない。勝手に受け取っているだけだがそれでも。

 ぼんやりと墓に刻まれた文字に目を滑らせる若狭がまた大きく息を吸い込んで口から紫煙を吐き出す。ぼやけた若狭の視界の奥に真一郎が見えた気がして目を凝らすが、そこには誰もいなかった。

 やや落胆したようなその様子を見下ろす真一郎が「ゴメンな」とその唇を動かしたがそれを見ている者も気づく者も、いなかった。

 どう足掻いても朝日が昇って朝は来る。

2022-09-09