幻影の香りの先に

 ポタポタと何かが手首から垂れていく。散々殴られ、切り付けられた身体はいうことを聞かず転がされるままに床から起き上がることも出来ないでいた。

 後ろ手に親指にかかる感触はおそらく結束バンドで、鬱血しそうな勢いで両指をきつく締め上げられている時点で外すこともできそうになかった。それが『結束バンド』と分かる時点で自分も随分と拷問をかけてきたのだと示すようで、今や受ける側になっていることに自嘲する。

 情報を話すためだけに口は塞がれていなかったが、それももう時間の問題のような気がした。先ほど打たれたのが筋肉弛緩剤なのかヤクなのか、はたまた勘繰らせるためだけの何でもない液体なのか、全身が悲鳴を上げている身体では分かりそうにもない。

 まして手首から流れ出ているものが何なのか——消耗した身体では温かいようにも感じた——、考えるだけ無駄のような気もした。

 遠からず処分される。打たれたのが何で、垂れているのが何であれおそらくそれは変わらない。

 静寂に包まれた倉庫の隅、薄汚れたそこに転がされている男は自認の通り殴られ切り付けられた跡でボロボロだった。どくどくと流れ続ける血に塗れて、着ている衣服も赤黒く染まった箇所を上塗りするように鮮血で染め上げられていく。

 

 そこへバタバタと忙しない足音が複数。

 慌てたように転がされた男の手前、やや明るいそこに倉庫に似つかわしくないほど綺麗にされた椅子を置き、背筋を伸ばして柄シャツやスーツの男たちが列を作った。危険性の確認か、ちらと転がされた男の方を見たがかろうじて呼吸している程度で身じろぎもしないのを確認して近づきはしなかった。視界には入るようにという位置に立ってはいるがそれだけで、まして目隠しをされた男にはそのことを知る術もなかった。

 

 かつ、かつ、と上質な革靴がひび割れたアスファルトを踏み進む音が響いた。隠しもしない足音を鳴らし、その音に整列していた男たちが伸びた背筋をさらに伸ばして揃って後ろで手を組み勢いよく頭を下げて停止した。

 

「お疲れ様です、兄貴!」

 

 口々に放たれる言葉が拷問をかけていた人間の上のものだと言う事を示していた。その短な言葉に尊敬と憧憬、畏れ、崇拝、そうした様々な感情が乗せられている。

 拷問担当がたいして情報を吐かせられなかったから上の人間が出張って、吐かせるか処分するか。そういう段階なのだろう。今まで散々拷問をかける側だったからこそ男にはそれが理解できてしまった。

 ぎし、と椅子に座る衣服と擦れた音がして、転がされた男にバタバタと近づく足音が一つ。腕を無造作に掴まれて身体を起こされ、被せられていたズタ袋を取られるなり、つけられていた目隠しを一気に剥ぎ取られた。

 突然明るくなったその視界は白くぼんやりとしていて、何かが座る椅子があるらしいことだけが男には理解できた。外の照明が差し込んでやや明るいそこから、フー、という煙草を吐き出す音がした。甘い、けれど重い香りが鼻にこびり着いた血の匂いを上書きするように男の肺まで届く。

 暫しの瞬きののち、鮮明になった視界の中で椅子に座る『それ』を男は認識した。

 

 美しい男がそこには座っていた。ハーフアップでまとめられた暗い髪の下から、染めたのだろう、明るいほとんど白の髪が重力に従ってストンと肩まで落ちている。肩に乗せられたジャケットと脚を包むスーツは白く、一切の汚れも見えなかった。薄いけれどしっかりとついた筋肉とその白い肌の上を彩るように入った刺青が妙にアンバランスで、けれどその不釣り合いさが男には似合っていた。

 視線を上げるととろりとした垂れ目から薄紫の瞳が覗き、全く関心のなさそうな美しい顔がそこにはあった。咥えた煙草を吸い込み、それを右手で口元を覆い隠すように掴んで外す。ただそれだけの動作で目を奪われるほどの色気を放つ、そんな男がそこに座っていた。

 差し込んだ灯りが白スーツに反射して煌めいている。

 モデルでもやっていれば納得できるほどの美しい男は、けれど肌を刺すような重い、凄みを持った空気を放っていた。

 今牛若狭。入っていた暴走族解散後その組幹部直々に声をかけられ、数年断り続けたかと思えば、入るなり上まで駆け上がった男。他の組の人間であってもその経歴ゆえに知っている男だった。

 

「で、言うことは」

 

 吐き出された紫煙の奥、その唇から落とされた言葉は淡々と、突き刺すような重さを持って落とされた。やや掠れたその声はベッドの中で女にかければころりと何でも話してしまうような甘さを含むこともあるのだろう。同性であっても当てられそうな色気を含んでいた。

 ばん、とせっつくように腕を掴んでいた男が背中を叩く。早く吐けと言外に言われているのは流石にどんな馬鹿でも理解できる。それでも口にする情報は、なかった。というより既に持っている情報がほとんどないと言うのが正しかった。既にきれる交渉材料も振るうことのできる力もなく、そしてそれが許されないことも理解していた。

 

「ない。これ以上、オレは知らない」

「フーン?…、目か舌。あー、やっぱいいや触りたくねェし、目な」

「っ、」

 

 じっと真実を確認されるように合わせられた瞳が、フッと完全に興味を失って落とされる。

 ぎし、と音を立てて椅子から立ち上がりこちらへと近づいてくる男の手には煙草が摘むように掴まれている。腕を掴んでいた男に髪を引っ掴まれ、これまた雑に瞼を開かされた。

 その先は知っていた。先日この組の人間を拷問にかけた時にやった自分の手口と一緒だった。じゅうと嫌な音を立てて目に煙草の火が押しつけられる。嫌な汗と共に口から悲鳴が漏れた。その熱、痛み、飛んでいきそうな意識。怒涛の様に押し寄せるそれに何かを口にしてしまったような気もする。先ほど打たれたのは自白剤だったのかもしれない。動いた口も放った言葉も男には全く認識できなかった。

 

「ン」

 

 合点が入ったとでも言うように短く言葉を放ち、煙草をピンと弾くように捨てた。そのまま背中、その腰に回した男の手が銃を掴んで現れた。

 かち、と躊躇いなく安全装置が外されたそれがそのまま向けられる。離れろとでも言うように銃口を横に振って部下を下がらせた今牛の構えには洗練された慣れが見えた。腕を離され、支えを失った男は身体を起こしておくだけの力も入らずに再び床に叩きつけられる。自分から垂れていた血が頬にぬるい感触と共に付着した。

 汚れるからか、少し離れた位置からこちらを見下ろす今牛の顔はなんの感情も浮かべていなかった。

 ばん、と乾いた音がした。

 次いで感じたのは熱。追うように急速に力が抜けていく身体の重さ。痛み。たまらず咳き込んだ口からゴポリと血が溢れて、先ほどまで鼻が拾っていた今牛の煙草の香りを塗りつぶしていく。

 がは、とまた溢れる血と反比例するように薄らんでいく視界の中で、きらりと白い背が豹のように遠ざかっていくのが見えた。それを最後に、男はぶつりとその意識を手放した。物言わぬ骸から、どくどくと流れ続ける血がアスファルトの罅に染み込んでその形を縁取っていた。