紅を引く

「鬼龍殿!」

 

 そう言いながら道場へと駆け込んできた颯馬をたしなめる、けれどどこか機嫌のよさそうな声が響く。

 

「神崎。もう少し静かに入ってこい。」

 

 衣装を作っている手を止め、入り口に立つ颯馬と目を合わせるように顔を上げて道場の主がこぼした。空手部の活動のない今日、道場にあるのは紅郎の姿だけだ。道場の中央で布や糸に囲まれて胡坐をかいている。膝の上で今まさに縫われていたのはどこかのユニットの衣装のようだ。

 

「相済まぬ。少し鬼龍殿に見ていただきたいものがあり、つい大きな声を出してしまった。」

「まあ、俺以外誰もいないからいいけどよ。それで?どうかしたのか?」

「うむ!まずはこちら、頼まれていた反物である。」

「お!…随分状態が良いな。本当に貰っちまっていいのか?」

「勿論である。家にあってもだれも使っておらぬので、鬼龍殿に使っていただく方が本望であろう。」

「それならありがたく貰っちまうけどよ。わざわざありがとうな。」

「お役に立てたようで我も嬉しい。それと、こちらも鬼龍殿に持っていただきたいのである。」

 

 ポケットからおもむろに小さな紙袋を取り出して、受け取った反物を隣に置いた紅郎の手に乗せた。封はされていないその袋はやや重たく、しかし手のひらに収まるほどの大きさしかない。楽しそうに、早く開けてみてくれと口には出さないが、目で訴えている颯馬を見つつ、中身を取り出す。

 

「貝…?にしては重いな。」

「うむ!紅である。」

「紅、…って化粧の紅か?」

「さすが鬼龍殿、ご存じであったか。実は贔屓にしている呉服屋の方にいただいたのである。我が紅月として活動しているのをご存じだったらしく、是非使ってくれと。ただ、我は化粧に関しては門外漢であるゆえ、鬼龍殿にお渡ししておいた方が良いと考えたのである。」

「なるほどな。蓮巳の旦那が言ってた次のライブの時にでも使ってみるか。」

 

 貝殻の形をした紅の蓋を開けて見つつ、次の衣装を考える紅郎の姿に颯馬は楽しそうに言葉を続けていく。

 

「楽しみであるな!次のライブでも紅月として邁進していく所存である!」

「ははっ、大げさだなお前は。まあ久しぶりにでかいライブになりそうだしな。そこまで詳しくはないが、紅を有効活用できるようにしておくぜ。」

「うむ!では我は海洋生物部に行かねばならぬのでこれで失礼する。」

「おう、また明日な。」

「また明日、である!」

 

 一礼して、来た時と同様に髪を揺らしながら走っていく颯馬を見送り、道場でまじまじと紅を改めて見やる。これも含めて、次の衣装をどうするかの算段を立てていく。

もうしばらくすればそのライブの件で蓮巳も来るはずだ。その時に衣装とこの紅について話しておこう。確定させるのは明日、紅月が三人揃う時でいいだろう。

 

そう考えていると、静かな足音が道場に近づいていく。その音に紅郎が入り口に目を向けると敬人が立っていた。

 

「すまんな。遅くなった。」

「作業してたから気にすんな。」

 

 広げていた布を片付け、道場内に入ってきた敬人に隣に座るように促すと、2人はひとまずライブのことを軽く打ち合わせを始めた。そうして話はそのまま先ほどの紅に移っていく。

 

「しかし紅か…。名前は見たことがあるが実物は初めて見るな。」

「俺もだ。しかもケースも貝だし、いかにもって感じだよな。」

「ああ。」

「それにしても、紅月が紅を塗るってのはちいと駄洒落みてぇだけどよ。」

「まあ確かにな。そうなると貴様は紅を塗った紅月の鬼龍紅郎になるわけだが。」

 

 若干肩を震わせつつ揶揄うようにそう口にする敬人に、微妙な顔をする紅郎。と、ふと思いついたとでも言うかのようにやや悪い顔を浮かべて敬人に座ったまま近づいていく。急に近づかれた猫のように少し慌てている敬人の顔へそのまま手を伸ばす。

 

「試しに旦那の顔に塗ってみようぜ。」

「は?いや、塗るのは構わんが近いぞ!」

「んなに慌てるなよ。『鬼』じゃねえんだ、取って喰いはしねえさ。」

 

 名前をもじった揶揄いにそう返しながら、逃げる敬人の後頭部に左手をまわしてそれ以上距離をとれないように抱え込む。座ったまま身をよじって逃げたせいで、紅郎に頭を抱え込まれるとほとんど押し倒されたようなかたちになる。それがまるで情事の際のようでますます慌てる敬人をよそに紅郎は既に紅の蓋を開けて指に取った。無骨な指に紅が乗っているのが物珍しいようだが、血がついているようで過去の討伐を思い出して複雑な気分になる。

 真剣な顔をして目元、続いて唇へと指を滑らせる紅郎の姿に思わず黙り込み、どこへやればいいのか、定まらない視線を動かす敬人。その指の動きに妙に顔が熱くなっている気さえする。

 

「よし。」

 

 満足気にそう言いながら顔から指を離していく。そこで敬人の顔が赤くなっていることに気付いたのか、ぱちぱちと瞳を瞬かせながら顔を覗き込む。

 

「似合うぜ、旦那。顔が赤くなっちまってるけど色白だから映えるよな。」

「ええい、やかましい!貴様が近すぎるのが悪い!」

 

 思わず、といったように紅郎を押し返す。紅郎も抵抗せず、されるがまま押し返され、そのまま座り直そうとした。が、今度は敬人が紅を拾い上げ、仕返しとばかりに紅郎の唇に塗り始めた。恥ずかしさで自棄になっているのか、それとも気付いていないのかは分からないが先ほど近いと言っていた人間とは思えないほどの距離間で紅を乗せていく。紅郎は呆気にとられたが、いつものことかと塗りやすいように瞳を閉じ、身を任せる。

 

 しばらくすると静かに離れていく気配を感じ、目を開ける。紅郎の視界には得意げに腕を組んでこちらを見る敬人の姿があった。未だ頬が赤いが、塗り返したことで少し満足しているようにも見える。

 

「全く度し難い。学内でそんなに近づくやつがあるか。」

「悪い悪い。つい、な。」

「全く思っていないだろう貴様…。」

「旦那が随分いい反応をするからな。それにしても良いな、紅塗ってるの。」

「貴様…、次にしたら緑でも塗るぞ。」

 

 言外に自分の色を塗っているようで気分がいいと言っているのを察したのか、そう返す敬人に思わず目を丸くする紅郎。

見目に反し、ただ大人しくされるがままになどなってくれない男のこういうところが好ましいのだと改めて思いながら、喰ってしまいたいとも思う。先ほど窘められたばかりなので口には出さないが。

 

「いいじゃねぇか。その時は旦那の色で塗ってくれや。」

「全く、いい顔で笑いおって。」

「そう怒らなくても、取って喰いやしねえさ。…ここではな。」

「なっ…!貴様!」

「ははっ。そう怒るなよ。紅落としに行こうぜ。」

 

 声をかけながら立ち上がって道場を出ていこうとする紅郎の後をポコポコと怒りながら敬人が追いかける。その目元と唇は揃いの紅色に塗られたままだ。

 道場から遠ざかっていく2人分の影が、夕暮れの時間も相まって長く伸び、畳の上に転がった紅にかかっていた。

 

後日、敬人に緑を塗られる紅郎の姿があったが、それはまた別の話である。

 

2022-09-08