#00B7CE

 出そうになる嘆息を呑み込むように一つ息を吸い込むと、沖縄料理独特の調味料の香りとその遠くに微かに潮の匂いが鼻を抜ける。外に面した壁一面のガラスから強い日差しが差し込み、足元に幾何学模様を作り出して乱反射した影が映っていた。足元から反射するその光とガラス越しに視界の横から差し込んでくる光がチカチカと目を灼く。

 首までを覆う黒い制服がその熱を吸収してじわりと体温が上がっているのが分かった。肩にかけた鞄の持ち手を握った手のひらが少しだけ汗ばんで、それが少しばかり不快で軽く握り直す。その動きに合わせて持ち手との間にできた隙間に空港に広がる冷気が入り込み、汗が冷やされていくのを感じた。

「七海、今日何食べて帰る?」

「さっき昼食をとったばかりでしょう」

「えー、軽くしか食べてないじゃん‼︎店にも入れてないし」

「…そうですね」

「せっかくだから沖縄っぽいものがいいよね。妹にお土産も買いたいんだ」

「沖縄と言うとシーサーでは?厄除けのはずですよ」

「あ、やっぱり⁉︎シーサーのキーホルダーとか良いかな?」

「効果の程は怪しいですが。現にあそこの土産店にも蠅頭はいますし」

「まぁそうなんだけどね、美味しいものの方がいいかな…」

「…どちらでも喜ぶと思いますよ」

「じゃあどっちも買っていこうかな‼︎」

 にこやかな笑みを浮かべたままハキハキと話す灰原は周囲を警戒しつつもまた土産の話をしている。正直なところ、自分一人で空港のロビーに佇んでいれば怪しまれただろうと思う。楽しそうに隣に立つ同期がいることで、ただ一人で気を張ったまま待つよりは幾らかましだった。とは言え、突然延びた那覇滞在は絶対にあの先輩のせいだろうと気分が下がる。一年だけでこなす任務ではない。

 せめて海くらいは見て帰りたい。滅入る気をどうにか抱えたまま鞄を持ち直した。

 

 視界に映った地下鉄へと続く道の案内板は変わらず眩しい光を放っている。眼鏡もサングラスもないそのままの視界で見るLEDの光は色素の薄い自分の瞳には眩しかった。いつもよりやや狭い視界は何の感覚も感じない顔の左半分のせいだろうか。自分の足音もいつもより遠く靄がかかって聞こえる。何時だって歩行者でひしめきあう地下道には一切人影がなく、そこを歩いているのは新鮮だった。

 歩みを進めると鉄製の壁面に囲まれた階段が見えた。そこに映った自分の顔は左半分が完全に焼け爛れている。これのせいか、とどこか他人事のように感じながらそれでも歩みは止めなかった。右手に握ったままの鉈の冷たさだけは微かに感じられる。その手に汗は、かいていなかった。

 何のために、今歩いているのだったか。どこかへ飛び去って行きそうな思考を紡いで自分のすべきことを考える。機械的に歩みを進める自分の足は、自分でもどこに向かっているのか分からなかった。思考よりも先に身体が動いている。

 遠くへ行きたい。助けなければ。帰りたい。行かなくては。

 階段を一歩ずつ降りてゆく。前方に呪霊がいるのを感じたが、身体の痛覚はとうに死んでいる。気配を感じ取れるのに自分の身体の感覚はない。そのことさえ、他人事だった。

 視界に入った天吊りの電子看板が明滅する。瞬きを繰り返すといつか見た、陽に照らされた海面に似ている気がした。

 階段の下で歩みを止める。予想通りに視界に映った呪霊に無意識のうちに右手の鉈を握りしめた。視界にはあの海が見えた。