月明かり

 明かりの落ちたボーダーの廊下を鬼神丸を片手に持ったまま歩く自分の足音だけが人のいないその空間に嫌に反響して響いている。この身が「人ではなくなった」とは言え、人としてそれなりに長く生きた自分は特に何を考えるでもなく眠りにつけていた。しかし、今晩は痛むような「気がする」古傷のせいか、はたまたかつての仕事の癖か妙に冴えたままの目が休息を取るのを拒むように眠気を拾うことができなかった。

 特に宛もなく行き先も決めずに部屋を出て歩き回る。明かりもない暗闇を歩き回るのは生前散々やったことだ。浪士に気取られないように提灯を消す事も多く、それでなくても京の町は日が落ちれば花街を除いて大抵の場所が星月を頼りにしなければ歩けないほど暗い。ここは月も星も見えない知らない土地だが、そこに満ちた冷たい空気を何故だか懐かしく感じる。歩きながら脳内に広げた地図を更新していくその作業もまた、妙に懐かしかった。

 そうして歩き回ってどれほど経ったのか、1つの部屋から人目を忍ぶようにひっそりと小さな光が溢れていた。それは、食堂だ。

 この深夜に食堂とは、マスターが何時だかに話していた例の所長だろうか?

 少しの好奇心に駆られて入り口から中を覗き込んだそこに座るでもなく立っていたのは、予想外の、けれどよく知った男だった。

 

「げっ、…夜中の食堂で何してんですかあんた」

「分かってて聞くな」

「いや、そんなちっさい明かりでいかつい男が立ってりゃ聞くでしょう」

「慣れてんだろうが」

「まぁそうですけど」

 

 思わず口から漏れた言葉はいつも通り特に咎められることもなく、その視界に映った土方さんの手には小さな徳利があった。その近くの机には見慣れたくなかった黄色い塊ーー沢庵が鎮座している。皿に乗っているとは言え、明らかに量が多い。

 

「ちょうどいい。暇してるんだろ、付き合え」

「へ?」

「行くぞ」

「ちょ、…。全くもうあんたは…」

 

 こちらの答えも待たず、酒と沢庵を手に歩き出したその背中はよくよく見知ったもので、けれどその服は僅かな期間しか見ていないはずだ。それでもその背にどこか安心するのを、その背を追いかけろと焦燥のまま叫ぶ心をきっとこの男は知らない。ーーその実きっと、知らないふりをしてくれているだけだ。鬼だの何だの言われ、確かに荒いその気性を抱えつつも花を愛で歌を詠むような風流を汲む姿は「二面性がある」とも言われていた。それでも自分にとっては血塗れで刀を振り回す姿も、一人私室で筆を走らせていた姿も、どちらも「土方歳三」という男であり、そのどちらが欠けても成り立つものではないのだ。

 一度も振り返らないまま歩き出したその背は無言の信頼だ。言うまでもなく、ついて来るだろうという。かつて、一度ついて行かなかった自分への態度に変化はなく、それが自分の小さな反抗心も何もかもを呑み込んで足を動かさせる。

 既に食堂の入口から出つつあるその背に追いつき、静かにその後ろを歩く。行き先は知らないが、酒盛りをするのなら自室かはたまたどこかそれ用の部屋でもあるのか…。流石にボイラー室横とは言わないだろう。

 暗闇の中、追いかける背中が一つの部屋へと入って行った。来てすぐにマスターに説明された記憶が確かなら、ここは演習室ではなかっただろうか…?

 疑問に思ったままのこちらをよそに中でモニターを起動し、幾らか操作したその数秒後、部屋が一瞬に包まれ、足元から電子によって風景が組み上げられていく。瞬く間に作りあげられたそこは、確かに覚えのある縁側を月が照らしていた。足元に広がる砂も視界の端に映る塀も何もかも見覚えしかない。

 反射的に呑みそうになった息を、唇を舐めることでどうにか誤魔化す。そんなこちらをやはり見ることなく、さっさとその縁側へと腰を下ろした男に思わず小さく舌を打ちそうになった。

 

「何時まで突っ立ってんだ」

「…、はいはい座りますよ」

 

 こちらの焦燥も躊躇も理解しているくせに素知らぬ顔でそう宣う男へ不平を垂れても無駄なことはよく知っている。これと決めたら基本的に変えることはない。それは語ることの少ないが故に余人の知るところではないが、熟考の上でなされており、何時からかーー京に出たその日からかーーその決断に人の命を背負うようになったことが拍車をかけていた。

 とはいえ口から零れ落ちるため息を隠すこともなく置かれた徳利と皿を挟んで隣へと腰を下ろす。それにちらりとだけ視線をよこし、徳利から猪口に注いだ酒をさしだす土方さんはどこか楽しげだ。それがかつて江戸で、京で、会津で共に呑んだ酒を思い出して胸に痛みが走る。屈託のない、「田舎侍」としての笑みを最後に見たのは何時だったか。それすら曖昧な記憶は英霊としての現界が理由なのか、それでも笑みの浮かべ方は同じに見えた。少なくとも自分にとっては。

 無言で掲げた猪口を口に運ぶ。飾り気のないそれから立ち上る酒の香りに少し気分が上がり、口に含み呑みこんだその酒が一層濃く喉から鼻に抜ける。視界の端で猪口を煽り、一気に呑み干すその顔を月明かりがぼんやりと照らしていた。

 

「お前、長く生きたらしいな」

「一番長生きだったのは俺じゃないですけどね」

「そうだろうな。長く生きれるタマじゃねえ」

「それは俺も同感ですよ。長く生きるなんて思ってなかったし」

「…、お前も改名したんだったか」

「は!?なんでそれ、」

「マスターだ」

「あーー…」

 

 突如振られた話題にちびちびと口をつけていた酒を落としそうになった。確かに改名はした。「も」というのは間違いなく近藤さんのことだろう。まさかその話題をこの人が知っているとは思わず、過剰に反応してしまったが怪しまれなかっただろうかと思い、伺うように視線を投げる。

 が、視界に飛び込むその顔で間違い無くそれとばれていることが分かった。分かってしまった。先ほど思い出していた「笑み」にも近い、悪どい顔を浮かべた土方さんは楽しげにこちらを見ている。

 

「お前、改名しても数字を入れていたらしいな。なんで『三』を使わなかった」

「っっったくもうあんたは…!分かってんでしょうよ」

「なんだ分かってて聞いてるに決まってるだろう」

「知ってますよ、っんとにあんたは…!なんで女たちはこんな人に熱を上げてたんだが」

「そりゃ伊達男だからだろ。お前が一番知ってるんじゃないのか」

「〜…!知ってますよ…」

 

 楽しげに、けれど否定されるとは微塵も思っていないその顔は腹立たしいようで、それでこそ副長だと思い知らされるようで何も言えずに顔を背ける。少しばかり熱を持っているような顔の赤みをきっとこの人は気付いている。

 背けた先には煌々と月が輝いているのが見えた。

 

2022-09-09