水槽

 

 その手紙を渡されたのは突然だった。

組織からの指示書の入った手紙をいつも渡してくる情報員が青ざめながら渡してきた。何かあったのかと尋ねる前にこちらに手紙を押し付けて去っていく。いつにない様子に訝しげに思いながら、ひとまず手紙を開けようと手を返し、封をされた裏側を見た。思わず、通りへ向いていた足が止まる。

 差出人の名前はない。しかし、封に使われている蝋の紋章には嫌というほど覚えがある。マフィア・オクタヴィネルが取り仕切るこの街で、うねる蛸の足を紋章に使うなんて一人しかいない。いったいなぜ。一介の構成員に指示書を送るほど暇ではないはずだ。まさか自分が捜査員だということが漏れたのか?それならばわざわざ手紙を送りつける悠長さも理解できない。

 ともかく中身を見よう。そう思って封を切る。そこにはやけに丁寧な挨拶に始まり、日時と場所が記されている。

「お待ちしております。」

締めはそれだけだ。詳細は何一つ書かれていない。何故呼び出されているのか。いやな想像ばかりが頭をよぎる。つい先日裏切り者が粛清されたという噂を耳にしたばかりだ。指定時間を見るに、とにかくあまり時間がない。この気持ちの悪い感情を抱えたまま数日を過ごす必要のないことに喜べばいいのかも良く分からないが、呼び出しの理由が分からない以上遅れるのは愚策だ。今すぐ向かえば余裕をもって到着できる距離なことにも冷や汗が出る。どこまで計算されているのか。

 

 指定場所は海岸近くに建つ大きなホテルだった。海から海水をひき、ホテルのロビーに設置された大型のアクアリウムでは色鮮やかな魚たちが泳いでいる。今のボスが就任してから改修され、この形になったらしい。

 首を回して周囲を確認するが、フロントには観光客と思しき姿しかない。ひとまず受付の先にあるレストランへ行ってみるかと身体を向ける。すると、受付のスタッフに声をかけられた。この潜入が始まってから使っている偽名で呼ばれる。やはり、というべきかマフィアが経営するだけあって連絡がいっているらしく、およそ一般客の入れないだろう部屋の前へ通された。

 

 軽く息を吐き、呼吸を整える。予想外の事態だが、ボスに会えるというのならみすみす機会を逃すわけにはいかない。

 ノックをし、返ってきた返事に腹をくくる。蛸にウツボだろうか、見るからに凝った作りのドアハンドルを押して扉をくぐった。

 目の前にはこれまた上質な執務机と革張りの一人掛けの椅子。そこに座るのは予想に違わず、マフィア・オクタヴィネルのボスであるアズール・アーシェングロットだった。机に肘をつき、顔のやや下あたりで悠然と両手を組んでいる。その椅子に腕をのせて向かって右側、楽し気に立っているのは幹部フロイド・リーチ。反対側にぴんと姿勢よく立っているのは同じく幹部のジェイド・リーチ。ほとんどの時間を連れたって動くとは聞いたが、呼び出しに3人が揃い踏みとは。

 

「ようこそ。お待ちしていましたよ、時間通りですね。」

 

 そうかけられた言葉に手を後ろに回して待機の構えをとる。気を抜くな。何の用件であれ、潜入している以上どんな情報でも命取りになる。突然呼び出され、緊張する一介の構成員の表情をつくれ。

 思考を巡らせながら、アズールと視線を合わせたまま言葉を待つ。笑みを浮かべたアズールに突然、名前を呼ばれた。

 

 脳裏で警鐘が鳴る。思わず表情が崩れた気がした。

 

 

 今のは、偽名ではない。真実、自分の本名だ。一体どこから。いやその前にブラフかもしれない。口を開くにはまだ早い。

 

 表情を変えずに、荒れ狂う脳内をどうにか落ち着けようとする。視線をさまよわせないようにと、合わせた目をそらすこともできない。そんな思考を察したのか、笑みを深めてアズールが再度口を開いた。今度はその口から、所属と本名が告げられる。

 

「そう怯えないでください。何も今すぐあなたをどうにかしようという話ではないんですよ。」

 

 所属まですべて情報が流れている。危惧していた通りになった。かといって今すぐこのホテルを跳び出しても、おそらく待機しているだろう戦闘員の射程に飛び込むだけだ。ましてこの双子から逃げられるとも思えなかった。

 口を開くこともできずに、無言で見つめることしかできない。アズールの左右で双子が獲物を見つけたかのような表情でこちらを見ている。

 

「呼び出した理由はお話があるからなんです。僕と一つ、契約をしていただきたくて。

 最近、僕らの街に見慣れない獣が入り込んで困ってるんです。それをそちらで引き取っていただきたいんですよ。その代わり、僕らの街にあなたがこのまま滞在するのに目を瞑ります。

悪い話ではないでしょう?」

 

 にこやかにそう話すアズール。疑問形でこちらに投げかけているが、この話には拒否権などない。断れば「死」しかない。獣、というのはおそらく最近になってこの街を獲ろうと動いている組織の話だろう。上からそちらの情報も探れと指示を受けたのは昨日のことだ。一体どこまで知っているのか。

 絞り出すように「イエス」と答える。これ以外に返事などできようはずもない。自分がここで死んでも他のスパイが次に呼び出される。確証はないがそんな気がした。

 その返事に満足したのか、引き出しから何か紙を取り出し言葉を続ける。

 

「では、取引といきましょう。

ええ、もちろん、お互いにフェアな条件ですよ。

これは契約ですから。」

 

この男のことを愚鈍な蛸だなんて呼んだのはいったい誰だ。これは明らかに高い知能を持った、さながら知恵を授ける代わりに報酬を奪い去っていく魔女だ。気取られぬうちに大切なものを奪っている。いや、そもそも蛸というのは化物級に高い知能を持つのだったか。

その左右で笑みを浮かべたまま一切言葉を発しない双子に、冷や汗が止まらない。

 

そうして差し出されたペンを手に取った。

 

***

 

「ねえアズール~。オレ今回頑張ったでしょ?ご褒美ほしいな~。

 前にコンクリはダメって言われたから、ちゃんと黒い袋使ったんだよ?」

「おや、では僕も。情報を精査するの大変だったんですよ?」

「確かに面倒な案件でしたけど、あなたたちそう言って毎回何かねだるでしょう…。

 全く。…明日はお昼から用があるんですから、ちゃんと考慮してくださいね。」

2022-09-08