陽炎

 

 ホースから撒いた逃げ水の先、陽炎がゆらめくその上で見慣れた、けれどもう決して見ることのないはずの姿が見えた。

 刺繍の入った真っ黒の特攻服に白いベルト、ブーツを履いたその出立ちは視界に入った足元だけで誰がそこに立っているかを如実に訴えている。

 ホースから飛び出て行った水を追ってアスファルトへと下ろされた若狭の視界にその靴が映る。勢いよく上へと持ち上げた視界に映る男のシルエットは間違えようはずもなかった。

 

「真、ちゃん、…?」

 

 ぼそりと唇からこぼれた呼び名はあの夏に彼岸へと去って逝った男のもので、若狭が絶対に他の誰とも間違えないものだった。

 真一郎がそこに、立っていた。

 やや宙に浮いたその姿は透けており、奥に広がる道路とそれを挟んで立ち並ぶビルが見える。

 若狭を視界に捉えた真一郎は朗らかに笑顔を浮かべ、唯一へと向けるその視線は若狭のよく知るものだった。二人で過ごしたその記憶に色濃く残るその視線を浴びて若狭の息が詰まる。もう二度とないと思っていたその瞬間を身体が無意識に受け止めて強張った。

 真一郎の唇が開かれ、その口から言葉が発される。

 瞬間、その声が若狭の耳を震わせることはなかった。

 ぱくぱくと何かを紡いでいるその口からの声は若狭に届くことはなく、何かを言っているはずのその音は何一つ聞こえない。若狭の脳裏に過ぎるその声が今一度鼓膜を震わすことはなく、けれど眼前の真一郎は笑顔のまま何かを喋り続けている。

 しばし動き続けたその唇がようやくその動きを止め、再度若狭としかと視線を絡める。とろりと溶けるように緩められたその瞳に若狭が映った。と同時、その唇が再び開かれる。

 

「ワカ」

 

 真一郎の唇に合わせて鼓膜を震わすその音は、けれど実際には何の音も出ていない。よく知ったその唇の動きに合わせて聞こえた幻聴でしかない。

 先程まで何一つ聞こえなかったその唇の動きが、名前を呼ばれた途端に明確に何を言っているのか理解できてしまったその事実に打たれて若狭は手に持ったままのホースを握り込んだ。熱を持った手のひらとゴム製のそれが擦れる音が周囲に落ちる。

 揺れる陽炎の先、見知った特攻服の男は既に忽然とその姿を消していた。先程まで立っていた位置に撒かれた水が熱されて空へと消えていく。憎らしいほど晴れた空が視界を塗りつぶすように広がっていた。

 自分の見たものが何だったのか、戦慄くような唇もそのままに「クソ、」と呟いた若狭を天高くただ広がる青空の入道雲が嗤うように見下ろしていた。ジリジリと灼けるように焼き尽くすほどの熱射が若狭へと降り注いでいる。

2022-09-09