首輪

 あと数日。

 

 ナイトレイブンカレッジからまた生徒が巣立っていく。ここに就任してから何度も経験した通過儀礼であり、学校という性質上避けては通ることのできない式だ。だが、こんなにも巣立っていくのを、手元から離れていくのを惜しいと思うのは初めてのことだった。

 夕暮れの似合う、あの大きな仔猫。そう呼べば不機嫌そうに喉を鳴らして、あの帳の落ちた荒れ野でも一層輝く星を閉じ込めたような瞳でこちらを見るのを存外気に入っている。留年し、通常の生徒より長くこの学園にはいたが、腐っても第二王子。国に帰らねばならない。魔力を持たぬオンボロ寮の監督生に殴り飛ばされたオーバーブロットの件以降、吹っ切れたように、それでいて変わらず不遜なふてぶてしいあの仔猫に少し安心したのを覚えている。———教鞭を持つものとして、導いたのが自分ではないことは複雑ではあるが。

 すっかり暗くなり、歩く生徒もなく静かな絵画たちの並ぶ廊下に自分の革靴の音だけが響いている。歩きながらも思考はあの獅子のことに傾いていた。

 俺の手の中に一度でも入った獣。このまま「卒業」という区切りに合わせて手放してやる気は毛頭ない。王家という檻が少々厄介だが、あの仔猫ならば玉座につき、檻を破壊することも可能だろう。できないというのなら奪い去ってしまえばいい。良い顔をするようになったあの獅子をおめおめと檻の中で力尽きるのを見る趣味はない。しかし、仔猫曰く「毛玉」という落ち着きのない小さな甥のことを邪険にしつつも相手しているのを見るに気に入ってはいるようなので、まとめて懐柔してしまっても良いかもしれない。

 

 頭の中で改めて算段をつけながら、外に面した廊下へと歩みを進める。と、月明かりで影になった柱の奥、バルコニーに立つ人影が見えた。

 

「こんな時間に何をしている。」

「眠れなくてなァ。散歩だよ、センセイ。」

 

 そうふてぶてしくのたまうのは今考えていた仔猫だった。安全圏とみなした場所ならば大抵どこでも眠れる癖によく言う。ましてサバナクローの寮と自分の部屋に近いこの廊下はほとんど真逆に位置する。ただ、着替えては来たらしく、制服でも寮服でもない、ゆるりとした私服に身を包んでいる。「生徒」ではないという無言の主張なのかは意地が悪すぎるかと尋ねたことはないが、少なくとも好意を持っていると自覚してからは私服で自室に訪ねてくるようになった律義さに愛らしさを覚えた。

 

「夜風を浴びるのならもう一枚着ろ。風邪をひきたくはないだろう?」

「なんだ、温めてくれないのか?」

 

 にやにやと笑いながら減らず口を叩く仔猫に小さくため息をつきつつ、コートをかけてやる。コートをどれほど気に入っているかを知っているからか、少し目を丸くしたその顔に思わず笑いがこぼれる。

 

「さっさと中に入れ。寮長が風邪をこじらせて卒業式に欠席など笑えん冗談だ。」

「…あァ。」

 

 返事はしたものの一歩も動こうとしないその姿に、仔猫も「卒業」に関して何か思うことでもあるのかと頭をよぎる。何か言いたげな表情に無言で先を促す。

 

「なあ、センセイ。一応言っとくが俺がここを出ても、あんたと関わりを切るつもりはないぜ。」

「ほう?奇遇だな。俺もせっかく躾けた仔猫を逃すつもりはないぞ。」

「はっ、仔猫ねえ。この俺を掴まえて猫呼ばわりするのはあんただけだな。」

「仔猫らしく、首輪でもつけてやろうか。」

 

 そうわざと挑発するように言う。いつものような言葉の応酬だ。小憎たらしいがそこを気に入っているので、まあ悪くない。こういうやり取りの時は決まってしっぽがゆらりと揺れるところを見ると向こうも気に入っているのだろう。とはいえ、何より束縛されることを嫌う仔猫のことだ、断り文句が飛び出すのがいつものことだった。

 

「あーー、じゃあくれよ。その首輪。」

 

 目の前に立つ男の口から出た言葉に一瞬、聞き間違いかとまじまじと顔を見てしまった。しかし、指さしているのは俺が常に持ち歩いているステッキにぶら下がる首輪だ。ここで首輪をつけてしまえるのは好都合だが、そんなに殊勝な性格はしていないだろうに。

 

「首輪をご所望とは…。高潔なる獅子も人間に飼われてみるか?」

「質の悪い冗談だな。良いから渡せよ。」

 

 いつも通りに不遜な笑みを浮かべたままの仔猫が差し出す手のひらにステッキから外した首輪をのせてやる。そのままあくどい笑みを浮かべた仔猫。これは、何か企んでいるなと思った。瞬間。

 

「『王者の咆哮』。」

 

 ぽつりと今までに見たことがないほどの平静さで詠唱を口にする仔猫の手の中で、首輪が乾き、ひび割れ、砂になっていく。その砂も夜風に乗ってどこへなりと飛んでいく。

 思わず「は。」という言葉ともいえない音が口から洩れる。

 

「悪いなァ、センセイ。俺は大人しく首輪なんざつけてやる『仔猫』じゃなくてな。でもこれは『俺の』首輪だ。確かに貰ったぜ。」

 

 悪びれる様子もなく、しかしはっきりとそう口にする仔猫。ああ本当にこいつは。大人しく首輪をつけられる気は毛頭ない癖に、俺の「首輪」が別の誰かのもとに行くかもしれないとでも危惧したのか。

 

「っっふっふっふ、はっはっはっは!いいだろう!それでこそだな。仔猫。ああ上出来だ。

Good Boy.」

 

 思わず肩を揺らすほどの笑いがこみあげてくる。いいだろうとも。これでこそだ。どうかそのまま国に戻っても檻なんぞに囚われてくれるなよ。

 笑いながら腕をつかみ引き寄せて腕の中に閉じ込める。まだ笑いが止まらない俺に、大人しくされるがままの仔猫にどうやってマーキングでもしておくか。

やや赤くなった不満げな顔を見ながら、揃いの香水にでもするかと考える。文字通り鼻の利く寮生への牽制になるのだから、仔猫の国に戻っても有効だろう。渡した時には素直じゃないこいつのことだ、きっと「くさい」というのだろうことが簡単に予想できる。ああ全く素直じゃない。今も尻尾が俺の腕に巻き付いてきているというのに。

だがまあ、悪くない。そう考えると卒業式が少し楽しみになってきた。見た目に反して柔らかな触り心地の髪の毛を手に取り、そのまま口づけを落とした。ひとまず気兼ねなく触れることのできる距離にいるうちに、この俺を帰ってくる場所として認識させることはできただろう。早いうちに王家の外堀を埋めてしまおう。監督生つながりで親愛なる「甥っ子」には繋ぎがついている。

 

ああ実に楽しみだ。

2022-09-08